白河高原カントリークラブ
2014年10月31日(金)
福島県のゴルフ場ではトップランクに評価される人気のコースだ。
1963年(昭和38年)にオープンした丘陵コース。福島県内ではゴルフ場の草分け的な存在である。
コースの設計は名匠 富沢誠造、合掌造りのクラブハウスはレイモンド設計事務所の設計だ。
茅葺屋根の重厚な雰囲気はクラブの風格と歴史を感じさせる。
コース全体に白樺など高原らしい樹木がふんだんに残され、雄大である。遠くに見える山々、目の前に広がるフェアウエー、そこに思い切って打ち込む爽快感が何とも言えない。
コースは「アウトが男性的」、「インが女性的」と言われている。
この時期にしては珍しく暖かい。緑の中に紅葉がアクセントになっている。四季を感じるコースである。
丘陵地に造成されたフェアウェイは大きなうねりがある。このためかティショットがラフにつかまるケースが多い。
ラフは山岳特有で芝根が強い。ラフはショットのコントロールが難しくなるため、どんな状況でもフェアウエーに置きたい。正確なショットを求めてくるコースだ。
深い谷越えである。心理的な効果を狙った設計だと言う。
ティグラウンドからグリーンに向かうには鉄橋が架けられている。その長さは110ヤード、見た印象よりも距離は短い。
ただ、ショートは絶対避けなければならない。奥は土手、大きめに打つ。
それでも、グリーンの右側にはOBを示す白い杭が目に入ってくる。目の前に広がる谷とOBゾーン、思いのほかプレッシャーがかかる。
かつてこのホールはバーディを取るとゴルフ場から「金杯」が贈られた。それだけ挑戦し甲斐があるホールなのだ。
この日は全員、わずかにグリーン手前。ピンをデッドに狙ったといいたいところだが、結果は如何ともしがたい。
続く6番は5番ホールの折り返しだ。
目の前には深い谷が待ち受けている。
ハンディキャップ1、このコースでは最も難関とされる。
右側沿って谷がある。ティショットはどんなことがあってもここに落としてはならない。
左側は山の斜面が続く。右に落としたくないため、狙いすぎて左の山肌に打ち込むと、急斜面で足場が悪くなる。
無理をすればするほど、ミスを重ねることになる。
2打目からは打ち上げが続く。ハンデキャップ1の手ごたえは十分であった。
13番は距離のあるミドルホール。全体的に打ち下ろしのため、気持ちよくショットができる。
左側にあるバンカーのすれすれに狙うのが近道だ。
しかし、左にそれると谷の斜面に転がり落ちてしまう。
近道狙いが逆に遠回りになってしまう。
安全策は右側の丘に向かって打つことだ。
多少距離は遠くなるが打ち下ろしを考えれば常道と思える。
しかし、巨匠はこのホールで最短コースを選んだ。
そして、パーセーブ、長いミドルを攻略した。
14番も印象に残る。
途中まで打ち下ろし、後半はフラットになるロングホールだ。
左側は谷側への傾斜、右側は土手が続く。当然右寄りのルートが安全だ。
狙い目はグリーン左側の一本松。
巨匠のティショットはその一本松の後方10ヤード地点に打ち込んでしまった。
2打目は一本松が目の前にあって、ピンはブラインド、苦境に立たされた。
ここでヘッドを立てて、枝の下を抜く、超絶の技を見せた。そして、らくらくパー、3ホール連続のパーセーブだ。
前半戦のスコアカードを眺めながら呟いた。「どこがショートホールかわからない」と。
手前に谷や障害物があるとどうしても力が入る。「すべてが順調に、すべてが思うままに、そんなゴルフは存在しない」ことを、またしても思い知らされる名人であった。
ゴルフは自分を信ずるスポーツだという。
しかし、この日の粋人は「自分を信じられず」に自滅した。
一つのミスを取り返そうと無理を重ねる。それがまたミスを誘発するのだった。
ロッジにはカラオケルームや麻雀部屋もある。ゴルフプレー以外にも楽しめる。
なんといっても風呂が温泉なのがうれしい。
秘湯甲子温泉から引いた源泉100%のかけ流しだ。
白河高原カントリークラブの経営母体はオープン時は大成建設だった。
那須と隣り合わせの位置にある。
周辺は別荘地が点在しているため、別荘を利用する人たちをターゲットに会員制で発足した。
2007年(平成19年)大成建設は同じ芙蓉グループで大成建設グループと親しい「東京建物」に売却した。
東京建物は不動産業界大手の会社で、ゴルフ事業などレジャー・リゾート部門を事業の柱に育てようとしていた。
そんな中で2011年、東日本大震災が起きた。
その影響は大きく、とりわけ東京電力福島第一原発の事故による風評被害は深刻だった。
原発から90キロ離れたところにあるが、2011年春は予約のキャンセルが相次いだ。
ロッジに宿泊する首都圏からのゴルファーが全体の7割を占めている。
それだけにキャンセルの痛手は大きかった。
こうしたことから県内のほかのゴルフ場とともに原子力損害賠償紛争解決センターに損害賠償請求の仲介手続き2011年末に申し立てた。
あれから3年半が経つ。ゴルファーはだいぶ戻ってきた。しかし、まだ、原発事故の風評の影響は払拭されてはいないという。