第4部 栄光の帰還 / 第1章 ジュネーヴ 第3節 マルチェロ(12) | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 

 
  

「父さんも母さんもそれでいいと思っていたん

だ。人はそれぞれのやり方で神に近づく。それ

で何の問題も無いって。しかし、それは甘い考

えだったのかもしれない。父さんも母さんも自

分のことばかり考えていて、時代がすっかり変

わってしまっていたことを本当の意味では理解

していなかったのかもしれない。そして、時代

と折り合いをつけることを、ラウロとマルチェ

ロ、お前達に押しつけてしまった。自分の信仰

は自分で選べだなんて、考えてみれば無責任極

まりない言い方だ。まだ子供だったお前たちに、

どうしてそんな残酷なことを言えたのか、今と

なっては自分にも良く分からないよ。その無責

任な行いの代償がこれだったんだ。

  私は父親失格だ。自分の息子を自殺に追い込

んでしまったんだからな。

  しかし、もう後に戻れない所まで来てしまっ

た。

  自分はもうここにはいられない。父さんがこ

こにいたら、次はお前が苦しむ番だ。次に何が

起こるのか、もう見たくは無いんだよ。もう耐

えられないんだ」

  父は話し終えると表情を隠すかのように私に

背を向け、屈んで靴の紐を結び始めました。

「父さん、そんなこと言わないでよ」私はおず

おずとその背中に向かって話し掛けました。

「ここにいてくれよ」

「なあ、ラウロ」父は紐を結び終えて立ち上が

ると、私を抱き締めました。「お前はもう一人

前の男だ。母さんのことを頼んだぞ」

  父は扉を開いて外に歩き出しました。

  私は戸口の所に立って、その背中に叫びまし

た。

「何だよ、俺や母さんを捨てるのかよ! そん

なのずるいぞ!」

  父は一瞬、立ち止まりましたが、もう振り返

ることはしませんでした。

「そうじゃない。お前や母さんのことを捨てる

つもりなんかない、お前たちを愛しているんだ。

遠くから、いつまでも見守っている。いつの日

か、また家族が平穏に暮らせる時が来ることを

神に祈りながら。父さんには分かるんだよ、神

様はきっとこの願いを聞き届けてくださるって。

その時は必ずやってくる。しかし、それは今じ

ゃないんだよ。」

  父はそう言って再び歩き始めました。もう二

度と振り返ることもなく。

  
  薄暗い部屋にひとりでじっとしていると、や

がて母が帰ってきました。

「先に帰っていたのね、なんでそんな暗い所に

ひとりでいるの? 蝋燭を灯せばいいのに」

  母が蝋燭に火をつけると、黒いショールに包

まれた顔に光が当たりました。疲れきった顔に

刻まれた悲嘆が深い陰となっていました。が、

抜け殻のようなその表情からは、どんな感情も

読み取ることはできませんでした。

「食事の支度をするわね」

「母さん、父さんがどこにいるのか聞かない

の?」

  母は立ち止まって、私に見知らぬ他人を見る

かのような一瞥を投げ掛けましたが、そのまま

私に背を向け、竈(かまど)に向かいました。

「父さん、出ていっちゃったよ、もう暫くは戻

らないって言ってたよ。もうここにはいられな

いって」

「そうなの……」

  母は料理の手を止めることなく、呟くように

答えました。

「そうなのじゃないだろ!」私は声を張り上げ、

机を叩きました。「父さんのことを止めてよ。

まだ遠くには行ってないよ。父さんのことを止

められるのは、母さんしかいないじゃないか!」

  母は私に背を向けたまま、しかしきっぱりと

答えました。

「ラウロ、父さんには父さんの考えがあるのよ」

「もういいよ!」