深夜の静けさに沈んだ小さな村は、母の悲鳴
に身震いしてその微睡みから飛び起きました。
近所の友人が、祖母の家まで走ってきて、私
に事態の急変を知らせてくれました。既に疲労
困憊して眠っていたいた祖母には、自分が見て
くるから心配しないでと、努めて平静に言い残
し、外に出るや全力で走り出しました。取り返
しのつかないことをしてしまった、という後悔
が胸の内に広がりました。兄と母を二人だけに
するべきじゃなかった。心臓が破裂しそうでし
たが、それでも構わないと思いながら走り続け
ました。
私の家を近所の人たちが取り囲んでいるのが
見えました。詰めかけた人々の背中に遮られ、
家の中は何がどうなっているか分かりません。
しかし、私の姿を認めるや、青ざめた顔をした
人々は、すぐさま脇にどいて大きく道を空けま
した。開かれた先には、そこだけ蝋燭の灯に照
らされて、床に座り込んでいる母の姿がありま
した。
生気を失った四肢をぐったりと投げ出した兄
を胸に抱いた母の姿が。
「マルチェロ、お願い、目を開けて! 返事を
して!」
母の叫び声が、人々の沈黙に虚しく吸い込ま
れていきました。
私もまた言葉を失って、その場に立ち尽くす
しかありませんでした。
母は血溜まりの中に座り込み、兄を胸に抱い
て、名前を叫び続けていました。
しかし、兄の後頭部には大きな穴が開いてい
て、そこを押さえている母の手の隙間から、血
や肉塊が、とめどなく滴り落ちていきました。
家族の大事を聞いて、父も遠方の仕事から急
遽戻ってきました。
父は、粗末な木の棺に入れられ変わり果てた
息子の顔を、いつまでも無言でじっと眺めてい
ました。
兄はまだヴァルドとして洗礼を受けていたわ
けではなかったのですが、もの寂しい葬儀の後、
ヴァルドの墓地に葬られることになりました。
実を言えば、洗礼を受けていないものをキリス
ト教徒の墓地に葬ることにも一悶着あったので
すが、祖母や母が、マルチェロはヴァルドにな
ることを決めていたと泣いて訴え、何とか認め
られました。カトリックである父は兄の遺体を
入れた棺を運ぶ人々の一人に加わって、墓地の
入口まで行きましたが、そこからは手を離して、
棺が墓地の中に運ばれて行くのを寂しそうに見
送ることになりました。
棺が土に埋められ、墓碑が立てられるのを見
届けると、葬儀の客は思い思いに散っていきま
したが、祖母と母だけはいつまでもその場所を
離れようとはしません。私は墓地の入口に残し
てきた父のことが気になっていたので、先に兄
の墓を離れたのですが、もうそこに父の姿はあ
りませんでした。
嫌な予感がして、急ぎ家に戻った所、そこに
は旅支度に余念の無い父の姿がありました。
「父さん、何やってるの」
父は私の方を見ようともせず、手を動かしな
がら答えました。
「仕事に戻るんだよ」
「もう? まだ帰ってきたばっかりじゃないか。
母さんもおばあちゃんもこの所、大変だったん
だ。少しは家にいてよ」
「父さんはもうここにはいられないよ」
「ここにはいられないって、どういう意味なん
だよ。父さんの家じゃないか。……それなら、
仕事が片付き次第、すぐに帰ってこられるんだ
よね?」
「それは分からないな」
「さっきから何言ってるんだよ!」
「ラウロ、よく聞いてくれ」
父はやっと支度の手を止めて私の方に向き直
りました。底知れぬ哀しみを湛えた目に見詰め
られた時、自分にはもう言葉がありませんでし
た。
「世の中の人々が、信仰について言い争いをし
たり、勢力を競ったり、果ては殺し合いまでし
ていることは、勿論、父さんだって知らないわ
けじゃない。しかし、父さんにとって信仰とは
もっと素朴なものだ。父さんの知っている人た
ちにとっても、それは同じだ。お前の祖父や曾
祖父が疑うこともなく信じていたものを受け継
いだ、ただそれだけなんだよ。今更、なぜそれ
を疑う必要があるんだ。それは誰かに何か言わ
れたから変えるようなものじゃないし、誰かを
無理に従わせるようなことでもない。日々の糧
に感謝し、祖先の魂の平安を祈り、愛する人々
への御加護を願う。それは人間としての自然な
感情なはずだ。私の一族にとって、絵を描くこ
とは神への祈りと同じことだった。だから、ど
んなに没落しても、お前の祖父は絵描きである
ことをやめようとはしなかったし、父さんはそ
の跡を継いだことを誇りに思っている。それは
ただ生きていくためだけの仕事なんかじゃない
んだよ。
母さんも信仰に対しては同じ素朴な思いを抱
いていたはずだ。ヴァルド派の物語、それは美
しい物語だ。その物語の中に自分を置いて、神
に一歩でも近づこうとする。カトリックとはや
り方が違うかもしれないが、神に向き合う気持
には何の変わりもない。