セヴィニエ夫人の手紙 (ルーヴォアの死とコンクラーベ) | アルプスの谷 1641

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1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 

 
 
 前半は、ルイ十四世のかつての片腕である 「軍務卿ルーヴォアの死」 につ
 
いて書かれています。 ルーヴォアについては、「アルプスの谷 1641」 第三部
 
の主要登場人物であり、当ブログでも何度か触れているので、ここでは説明
 
を割愛します。 
 
 後半では、その大事件のさなか、ローマでコンクラーベの進展に翻弄されて
 
いるクーランジュをセヴィニエ夫人が叱咤激励しています。 
 
 第241代教皇アレクサンド口八世は 1691年 2月 1日に死去。 次の教皇、
 
インノケンティウス十二世は、1691年 7月 12日 に選出されました。 実にコ
 
ンクラーベは五ヶ月も続いたことになります。 この間、教皇選出は自民党の
 
総裁選並に揉めに揉めていたことでしょう。 手紙からは、これに付き合わさ
 
れたクーランジュが精神的にすっかり参ってしまって、カトリック教会の行
 
方に悲観的になっていることが窺えます。 因みにですが、現代のコンクラ
 
ーベは、長くても三日程度です。 
 
 
以下、注です。 

 
 
お亡くなりになった閣僚はこれで二人目
 
もう一人は、ジャン=バティスト・コルベール (1690年 11月 3日 に死去) 
 
を指していると思われる。 

 
 
三十七代もの教皇
 
テオドシウス帝が、380年にキリスト教をローマ帝国の国教と定めた。 これ
 
以前、ローマから迫害を受けていた時代の教皇、 37名を指している。 因み
 
に、ローマ皇帝で最初にキリスト教徒になったのはコンスタンティヌス一世
 
で 312年頃。 

 
 
聖アウグスティヌス
 
ローマ帝国(西ローマ帝国)時代のキリスト教の神学者、哲学者 (354~430)
 
アウグスティヌスの思想はジャンセニスムに影響を与えている。 
 
[ →下記の記事を併せて参照してください ]

 

 

  
アバディ
 
詳細不明です。すみません。 
 
 
1691年 6月 26日 (従兄弟) クーランジュ殿へ 
  
 ルーヴォワ侯、偉大なる軍務卿にして、かくも高位にまで上り詰めた傑物、
 
ニコール氏の言葉を借りれば、その存在感は測り知れず、多くの活動の中心に
 
あったお方、そのルーヴォワ侯がお亡くなりになったのです! どれほど多く
 
の国事、どれほど多くの計画と事業、どれほど多くの秘密と利益が、有耶無耶
 
となってしまうことか。 戦争は始まったばかりで、策略と戦略を練り、遂行
 
しなければならないことが山ほど残っているのに。 
 
「ああ、神よ我に少しの時間を与え給え。 (さすれば) サヴォイア公の裏をか
 
き、オラニエ公を追い詰めることができたであろうに!」
 
「ならぬ、お前に猶予を与えることはできぬ。 ただの一時 (いっとき) たり
 
ともだ!」
 
 このような異常事態の発現に、理屈をつけることができるでしょうか。 い
 
いえ、全く不可能です。 各々がこれについて熟慮しなければなりません。 貴
 
男がローマに行ってしまってからというもの、お亡くなりになった閣僚はこ
 
れで二人目です。 彼らの死に様は比較できないまでに異なるものでしたが、
 
彼らの運命は有り得ないまでに似通ったものでした。 二人は相互の関係と
 
無数の鎖によって、この地上に結び付けられていたのです。 
 
 神の思し召しに従うべき、こうした重大な出来事のさなかに、貴男はロー
 
マにあって、コンクラーベで起こっていることを巡る信仰事に煩わされてい
 
るとは! 私の気の毒な従兄弟殿、貴男は間違いを犯していますよ。 私が聞
 
いた所では、非常に賢明なある御方は、ローマで見聞きしたことから全く正反
 
対の結論を引き出しています。 キリスト教信仰は、全き神聖にして奇跡であ
 
るがゆえに、このような混乱と冒涜のさなかにあっても、それ自体の力で生き
 
ながらえるにちがいないと。 そのお方の考えに倣えば、同じ結論に辿り着く
 
はずです。 そして思い起こすのです。 その同じ都市は、かつては無数の殉
 
教者たちの血に塗れていたことを。 そして最初の数世紀には、コンクラーベ
 
でどのような謀 (はかりごと) があろうとも、結局、殉教者の強靱さと熱情を
 
備えた司祭たちから教皇が選ばれたことを。 三十七代もの教皇が次々と殉教
 
の重荷を背負い、死の予感に際してもいささかも怯まず、死に繋がる役割を
 
受け入れたことを。 歴史を紐解いてみるだけで充分なのです。 賢明な方なら、
 
信仰が不断の奇跡によって生かされてきたことが分かるはずです。 (教会の) 
 
体制や存続は人間の空想の産物にしか過ぎません。 人間がそのように考える
 
ことは間違ったことなのです。 「信仰の真実 (The truth of Religion)」 に
 
書かれた聖アウグスティヌスをお読みになってください。 そして、アバディ
 
をお読みになってください。 聖アウグスティヌスとは大分異なりますが、キ
 
リスト教信仰について語るアバディと (聖アウグスティヌスを) 比較するこ
 
とは大変有益です。 (ポリニャックの僧正様に、その本を価値あるものと考
 
えているか尋ねてみてください) こうした総てのことを考え併せ、そのよう
 
なつまらない結論はお忘れください。 コンクラーベでいかなる奸計が巡らさ
 
れようとも、教皇を選ぶのは常に聖霊なのです。 神が為し給うことが総てで
 
あり、神こそが主人なのです。 そして、私たちはこのように考えるべきです。 
 
 (とても優れた本に書かれていた言葉です)
 
 「神が総てを創り給うたことを知り、神が創り給うたもの総てを愛する者
 
に、いかなる災いの降りかかることがあろうか」
 
 親愛なる従兄弟殿、この言葉を手紙の結びといたします。