モンテスパン侯爵はフランス寵姫の歴史三百五十年の中で唯一、妻を寝取
った国王に公然と反抗した男だったのです。 (前節より)
「モンテスパン侯爵」 と 「モンテスパン夫人こと フランソワーズ・アテナイス」
それでは、モンテスパン侯爵は妻を大事にする優しい夫だったのでしょうか。
それがそうでもないから、話はややこしい・・・。
モンテスパン家の一族は勇敢な武人を輩出したガスコーニュ地方の領主で、
モンテスパン侯爵本人も無骨な武人タイプの若者でした。 そんな彼がフラン
ソワーズ・アテナイスとパリで出会って結婚に至ったのは、二人が二十三の
時でした。
しかし、モンテスパン家は家柄から言えば、アテナイスのモントマール家
よりも格下、しかも若きモンテスパン侯爵は博打や放蕩に明け暮れ、結婚当
初から借金漬けという有様でした。 新妻に頭が上がらないモンテスパン侯爵
の名誉挽回の方法はただ一つ、戦場で手柄を立てて国王から認められること
のみ。 しかし、大金掛けて自分の部隊を編成し戦場に駆けつけるも、大した
手柄も立てられず、ただただ借金は膨らんでいく一方。 アテナイスが宮廷で
王妃の侍女になったのも、こうした金銭的に不安定な生活が背景にあったの
です。
才気に溢れ、絶世の美女と謳われたアテナイスが国王の目にとまるまで、
長くは掛かりませんでした。 その後、親友でもあったルイーズ・ド・ヴァリエ
ールから国王を奪い取り、最後はルイーズを宮廷から追い出して、自分が寵
姫となったのは本編でも触れた通りです。
しかし、最初、国王の関心が自分に向けられていることを知ったアテナイス
は脅えていました。
「神様、私が陛下の寵姫になるという夢をそんなに早く叶えないでください」
アテナイスは祈りました。 そして、夫には自分を遠征に連れて行ってくれ
るよう頼んだといいます。 モンテスパン侯爵は、笑って相手にしませんでし
た。 妻の貞節を頭から信じこんでいたからです。 そんな侯爵が妻に忠実だった
かというと、それが大違い。 自分は浮気し放題。 遠征先では部隊を引き連れ
て、気に入った娘をかっさらいに行くということまでやっています。 (未遂に
終わりましたが)。 妻を不倫に走らせたのは、多分に御自身にも原因があるよ
うです。
1669年、パリに戻った侯爵は、妻を寝取られた男を主人公にした喜劇、
モリエールの「ジョルジュ・ダンダン」を見て、劇場で大笑い。 侯爵に気が
付いた観客たちはひそひそ噂しましたが、見るに見かねたひとりが侯爵に言
いました。
「ちょっと、あの主人公のモデルはあんたでっせ」
「あはは……え? はあ?」
烈火の如く怒る侯爵。 家に戻った侯爵は妻に暴力を振るって問い詰めます
が、殴られてもただ冷笑するだけのアテナイスにさらに怒りは募るばかり。
夫に愛想をつかしたアテナイスは出奔してしまいます。
国王と妻の不倫を行く先々で触れ回ってみても誰も聞く耳を持たず、侯爵
は考えた挙句に復讐を決行します。 まず自分が娼婦と寝て性病に罹り、それ
を妻にうつす。 そうすれば国王も性病に感染する、ざまあみろ、という段取
りです。 しかし、この作戦には一つ重大な欠点がありました。 妻が自分
とは寝てくれないということです。 となれば、無理矢理やるしかありません。
侯爵は宮廷に行って、アテナイスを見付けると、周囲に人がいるのも構わず、
下半身を出して夫人に襲い掛かりました。
「自分の嫁さんとエッチして何が悪い!」
喚いてみても、その場で取り押さえられ、計画はあえなく失敗に終わりま
した。
この大騒動の数日後、喪服を着て宮廷に現われた侯爵に人々が唖然とする
中、国王の 「誰が死んだのですか」 という問いに 「妻です。 もう二度と妻に
会うことはないでしょう」 と答えました。
ベルサイユで、まさか自分の権威に公然と挑戦してくる者が現われようと
は思ってもみなかった国王は非常に動揺し、侯爵は以後ベルサイユ出禁とな
ります。
侯爵はこれ見よがしの葬列の馬車をしつらえ仰々しくパリを後にしました。
ルイ十四世には不愉快極まりない光景だったかもしれませんが、パリっ子たち
は侯爵の反逆に喝采を送りました。
領地に帰ると今度は盛大な葬式です。 教会に入る時、角が大きすぎて通常の
入口からは入れないから、正面の大扉を開けろと駄々をこねる始末。 (寝取られ
夫の頭には角が生えるという伝承がある) こうして、領地では侯爵夫人の死が、
というより、侯爵は妻を寝取られたことが徹底周知されたのでした。
モンテスパン侯爵、あの男は何をしでかすか分からない――このことは
アテナイスとの関係が続いている間、ルイ十四世の頭から離れることのない
悪夢となりました。 最大の問題は国王と夫人との間にできた子供たちのこと
です。 というのも、モンテスパン侯爵とアテナイスは離婚をしていない以上、その
子供たちは法的にはモンテスパン侯爵の子ということになるからです。 いつ
何時、モンテスパン侯爵が子供や夫人を略奪しに来るか、国王といえども気
が気でない日々が続きます。 このため、アテナイスの国王の子供たちは世間
の目から隠され、秘密裏に育てられました。 この時、子供たちの養育係を務
めたのが後のマントノン夫人で、大変、皮肉な話ではありますが、モンテス
パン侯爵の騒動が、国王とマントノン夫人との出会いを生んでしまったのです。
国王がアテナイスの子供たちを認知するためには、アテナイスと侯爵を離
婚させるしかありません。 通常、カトリック教徒の離婚は認められませんが、
夫の暴力や持参金の使い込みを理由として離婚裁判が始まりました。 国王の
息の掛かった裁判ですから、侯爵に勝ち目があるわけもなく、離婚が成立し
た上に全財産を没収されるという破壊的な敗北に終わりました。 侯爵は、辛う
じて、自分とアテナイスとの間に生まれた子供のための教育基金のお零れで食
いつなぐしかなくなりました。
モンテスパン侯爵が再び宮廷に出入りを許されるようになったのは、アテ
ナイスがマントノン夫人との戦いに敗れ、宮廷を去った後でした。
モンテスパン侯爵は宮廷で、もしかしたら自分の娘となっていたかもしれ
ないプリンセスたちに、ことさら慇懃丁寧にへりくだった挨拶をしました。
が、挨拶を終えてプリンセスたちに背を向けた時、その顔は愉快そうに笑っ
ていたといいます。
アテナイスとルイ十四世の娘たち、ナント嬢とブロワ嬢
(法的にはモンテスパン侯爵の娘?)
モンテスパン侯爵は 1691年にこの世を去りました。
死の直前、アテナイスに切々と愛を語った手紙を送っていますが、それに
対するアテナイスの反応は知られていません。
ヨーロッパの覇者、ルイ十四世を震え上がらせたモンテスパン侯爵の物語
は痛快ではありますが、その破天荒ぶりたるや狂気さえ感じさせるものが
あります。 しかし、妻への愛が本物だったからこその狂気だったのかもしれ
ません。


