17世紀のパリはどのような所だったのか | アルプスの谷 1641

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1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 
 こんにちは。 
 
 年初から南インドへ旅行に出ていて更新が滞っていた所に、唐突に第3部
 
を開始してしまいました。 すみません。 この後、暫くはこのテーマでブログ
 
を書き綴ることになりそうです。 完成披露に近い第1部、第2部とは違って、
 
書いている本人も17世紀パリの裏通りを手探りで進むような展開ですが、お
 
暇な折、お付き合いいただけると幸いです。 
 
 
 南インドですか?
 
 時間的な隔たりもあるので一概には言えませんが「北と随分違うなあ」と
 
いうのが正直な感想です。 前回、北インド旅行のような迫り来るインド人と
 
喧嘩するでも無く、下痢をするでもなく(下痢止めを二箱も持っていったのに)、
 
普通のアジア旅行をしてきました。 カレーも普通に美味しかったですよ。 ブ
 
ログのネタにならないのが、却って寂しかったりして。 
 
 意外だったのは日本人旅行者と全く出会わなかったこと。 旅行シーズンで
 
はないというのは分かりますが、南インドを旅行するには最高の時期、日本
 
人は内向きになったのかなあ、と思いました。 
 
 
 さて、ご挨拶はこのぐらいにして本題に入ります。 
 
 パリにはずっと昔に行ったことはあるのですが、実を言うとほんの3泊程
 
度しか滞在したことがありません。 そんな私が偉そうにパリの記事を書きや
 
がるのもどうかと思いますが、17世紀のパリは誰も見たことが無いはず (当た
 
り前です)、また、現在のパリからルイ十四世のパリの面影を見ることも困
 
難です。 
 
 現在、私たちが見ているパリは殆どが19世紀に形成されたもので、景観か
 
ら言えば、実は意外に新しい街です。 ナポレオン三世の構想に沿って行われ
 
た大規模なパリ改造は、全部壊して始めから建直しに近いもので、それがで
 
きたからこそ、統一した美意識を持つ街並みが可能になりました。 時期を合
 
わせて万国博覧会 (1867) なども開かれ、最先端の街並みを世界に誇示する意
 
味もあったことでしょう。 その後、ベル・エポックの時代を経て磨き抜かれ
 
たパリは、奇跡ともいえる幸運によってヒトラーの破壊命令を逃れ、現在に
 
至ります。 
 
 前回記事で主人公がポンヌフに立ってパリを眺める記述がありますが、ポ
 
ンヌフから川上側に目を向けた時、そこには中世から続く光景が広がってい
 
ました。 橋の上には高層の家屋――その多くは商店でした――が隙間無く並
 
び、セーヌの両岸には砂州があって、小舟からの荷の揚げ卸しに忙しかった
 
ことでしょう。 橋桁には水車小屋がありました。 ご存知の通り、現在、これ
 
らは影も形もありません。 
 
 とはいうものの――、主人公が川下側を見渡した時、その景色は、現在と
 
それほど変わっていないのではないかと思います。 右岸に見えるルーブル宮
 
は、中身こそ今は美術館となっていますが、外壁は今見られる通りで
 
すし、左岸にある大学、これはルイ十四世がルーブル宮から見た対岸の景観を
 
良くするために作られたものですが、今も教育関係の施設としてそこにあり
 
ます。 
 
 なお、セーヌの南側は左岸、北側は右岸と呼ばれていて、記事の記述はこれ
 
に従いました。 
 
 次の記事では、主人公に 17世紀パリの様子をもう少し語って貰いましょう。