第2部 「異端の谷」、第3章「ジェラルド」、第 3節 | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録


「同じ霧の中から、もう一人の少女が現れた。 その少女は、絶望の淵に立たさ
れながらも、なお輝くばかりの命の光を放っていた。 もしも別の場所、別の時に、
――いや、別の世界でアンナと出会っていたならと思わずにはいられない」
(前節より)
 
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第3章 「ジェラルド」 第4節は 6月1日に投稿します。
 
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第3章 「ジェラルド」
 
 
3.   
  
 
 
 とは言うものの・・。
 
 本当に強情で腹の立つ女ではある。 あのアンナというやつは。
 
 ちょっとした冗談に腹を立てて、ぷいと横を向いて、どしどし足を踏み鳴
 
らしながら、俺の前を行ったり来たりする。 どんなに俺に対して腹を立てて
 
いるか、態度で表しているつもりらしいが、こっちは苦笑いするしかない。
 
「もう二度と口を利いてあげない」 などと言うが、だから何だと言いのだろ
 
う。 一体、誰が、いつ、お話して欲しいと頼んだ? 少し頭を冷やしたら?
 
と言いたくなる。
 
 というわけで、アンナに食べかけの林檎をぶつけて逃げ帰ってきたが、あ
 
んまり気が晴れることもなかった。 お遊びもそこまでだった。
 
 ヴァルドの人々が唯一住むことを許された谷間の村々――ここには異端迫
 
害の辛い歴史が秘められているとしても、もう時代は変わった、これからは平
 
和な時がいつまでも続くと、アンナには信じていて貰いたかった。 そうすれば
 
彼女は安心して長くここに留まっていてくれる――いや、もしかしたら、いつま
 
でもここにいてくれるかもしれない。 しかし、アンナの前で何事も無いかのよ
 
うに振る舞っているのも、日増しに難しくなっていた。
 
 
 その日も、森の中にある自分の集落に帰ると不吉な知らせが待っていた。
 
それはトリノに近い村で起こった出来事だった。 その村には秘密裏にヴァル
 
ドの教えを信じる人々がいた。 或る老女が死の床にあって、最期にヴァルド
 
として死ぬための秘蹟を受けることを願ったが、そこにやってきたのはカト
 
リックの司祭だった。 死の床にあって譫妄状態にある老女は、その司祭の巧
 
妙な導きで、異端信仰の告白をしてしまった。 直ちに老女は外に引きずり出
 
され、車輪に縛り付けられて、火を付けられたという。 唯一の救いは、その
 
処刑も老女の寿命をほんの少し縮めただけに終わったということだけだった。
 
 
 それにピアネッツァ侯爵夫人のことだ。
 
 最近になって、侯爵夫人が死んだという知らせが入った。 あの女の生涯は、
 
ヴァルドの撲滅に捧げられていたようなものだった。 カトリックの信者から
 
異端撲滅のために寄付を募り、その金を使って人の不幸を嗅ぎまわった。
  
ヴァルドの住む村にスパイを送り込み、商売が回らなくなった者、返すあての
 
無い借金を負った者、親子や夫婦の不和に悩む者を見つけては、カトリック
 
への改宗と引き換えに、借金を肩代わりしたり、家からの出奔を勧めたりし
  
た。 まるでカトリックになれば、すべての悩みから解放されるとでもいうよ
 
うに。 そんな小賢しいやり方で、ヴァルドの人々が簡単に信仰を曲げるとも
 
思えなかったが、人間誰しもそんなに強くない。 目先の利益に目が眩んだ
 
者も少なくはなかっただろう。
 
 それだけならまだしも、奴らは平気でヴァルドの子供を攫って、カトリックの
 
修道院に入れたりする。 攫われた子供の苦しみ、その両親の嘆きはどれ
 
ほどだろう。 親が子を思い、子が親を慕う、その気持に信仰は関係ないこと
 
が彼らには分からないのだろうか。 娘を失った両親が十年ぶりに娘から手紙
 
を受け取ったが、喜んだのも束の間、その時、既に娘は修道院での誓いを立
 
てた後だったという話を聞いた。 そうするまで、両親に手紙を書くことさえ
 
も許されなかったのだ。 何よりも醜悪なのは、彼らはそれが子供のためであ
 
り、人助けをしているとさえ考えていることだ。
 
 そして、話に聞いていただけだった出来事が、ついにこの村でも起こる時
 
が来た。 レジーナが攫われたのだ。 ――アンナの見ている前で。
 
 
 ピアネッツァ侯爵夫人は死んだが、あの執念深い女が物事をやりかけにし
 
たまま、あの世に行ったとは思えない。 何か残しているはずだ。 さらなる迫
 
害につながる何かを。 もしも、それがサヴォイア公の母クリスティーヌに受
 
け継がれていたのなら? クリスティーヌの妹、英国王妃ヘンリエッタは、
 
清教徒たちによって国を追われたという。 クリスティーヌのプロテスタント
 
に対する嫌悪を考えれば、あの女がヴァルド迫害をためらうとは思えない。
 
 
 三十年続いた戦争の結果、カトリックの権威は没落した。 今のカトリック
 
教会には信仰で世界をまとめあげる力は無い。 人々は、もう二度と宗教的
 
な覇権を巡って戦争が起こることはあるまいと考えている。 ヨーロッパでは、
 
プロテスタントであれカトリックであれ、人々は自分の信じるものを信じ、とも
 
かくも共存の道を歩み始めた。 ヴァルドもまた信仰の自由が認められたと
 
考えているが、そうなのだろうか。
 
 自分にはそれが楽観的に過ぎると思えてならない。 人は不幸が現実の形を
 
取らない限り、それを認めたがらないものだ。 この十年はヴァルドの人々に
 
とっては、得難い平和の時代だった。 やっとの思いでつかんだ平和と喜びの
 
時代、それに水を差すような話を認めたくないのは理解できる。 しかし、現
 
に異端審問は激しさを増し、今もどこかで誰かが異端や魔女の烙印を押され、
 
生きたまま焼かれようとしている。
 
 そして、漠然としていた自分の懸念を裏付けるかのように、ひとりの男が
 
現れた。 その男は、文字通り不吉の使者だった。