第2部 「異端の谷」、第3章「ジェラルド」、第 2節 | アルプスの谷 1641

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1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 
「大事なことは、俺の身に奇跡が起こったことなんかじゃない。 もっと大
事なことがある。 アンナには決して話すことができない、もっと重大なことが。
 それは、あの霧の日、スペイン兵に襲われる前に起こったことだった」
(前節より)
 
 
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第3章 「ジェラルド」 第3節は 5月25日に投稿します。
 
 
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第3章 「ジェラルド」
 
2.   
 
 
 
 夜明けと共に霧が山から降り、木々や民家がぼんやりと霞んでいく。
 
「おい、あんまり離れるなよ。 この霧じゃ、離れたら同士討ちになるからな。
 
スペイン兵をはっきり見極めるまでは撃つんじゃねえぞ。 そんなもんが、い
 
ればの話だがな」
 
 部隊長のオットリーノが小声で言って、にやりと笑った。
 
 マスケット銃を抱え、地面に這いつくばらんばかりに姿勢を低くして、仲
 
間の後に続く。
 
 ピエモンテの山岳部深くにまで侵入したスペイン軍を追って、辿り着いた
 
小村――しかし、スペイン軍がこんな所でぐずぐずしているとは思えない。
 
それに、本当にこのあたりにスペイン軍がいるのなら、古参の傭兵であるオ
 
ットリーノが、わざわざ斥候を買って出るはずはない。 奴は危険を察知した
 
ら真っ先に逃げ、そして、略奪になると真っ先に乗り込んでいく。 そうやっ
 
て長い戦乱を傭兵として生き抜いてきたのだ。 卑怯を絵に書いたようなこの
 
部隊長のお陰で、傭兵稼業に付いてからというもの、まともな戦闘には一度
 
も参加しないまま、ここまで来てしまった。
 
 ここには敵はいない。 そう信じてはいても、緊張で口の中に舌が張り付く。
 
新参兵の自分は、訓練以外ではマスケット銃を撃ったこともない。
 
「ジェラルド、銃をこっちに向けるんじゃねえ、馬鹿野郎」
 
 オットリーノに罵られても、返答するだけの余裕も無かった。 銃を持ち替
 
え、ただ黙って進むだけだ。
 
 やがて数戸の農家から成る集落が霧の中に姿を現した、家の中に明かりが
 
見える。 オットリーノが手で兵士たちの動きを制する。 彼は下卑た笑いを浮
 
かべて振り返る。 奴の頭の中に何があるのか、手に取るように分かる。 これ
 
から起こる略奪を考えているのだ。 最初からそれが目的だったのだから。 傭
 
兵の通る所、敵も味方もなく繰り返される略奪と殺戮。 それが、今、自分の
 
目の前で始まろうとしていた。
 
 オットリーノはサーベルを抜くと、忍び足で手前の農家に近付き、仲間の
 
方を向いて戸口の脇に立つ。 マスケット銃が戸口に照準を合わせているのを
 
確かめると、いきなり戸を足で蹴り破った。 家の中で慌ただしい動きがあっ
 
たが、すぐに静かになる。 誰も反撃してはこなかった。 オットリーノは家の
 
中が静かになったのを待って、戸口の脇から出て、家の中に入っていった。
 
続いて仲間たちも立ち上がり、開け放たれた戸口に向かって行った。
 
 散らばった小間物や食べかけの食事が、直前まで家人がここにいたことを
 
示している。 家人たちは慌てて奥に逃げ込んだのだろう。 ひっくり帰った椅
 
子がその慌てぶりを物語っていた。
 
 奥へと進む。
 
 銃を構えながら、ひとつ、ひとつ、部屋の扉を足で蹴破っていく。 誰もい
 
ない。 逃げ足の早い奴らだ。 そう思いながらも心のどこかで安堵を感じてい
 
た。 誰もいないのなら誰も殺さずに済むからだ。
 
 しかし、無人の部屋を検めていた兵士のひとりが、突然、卑しい笑い声を
 
上げたかと思うと「俺の目は誤魔化されねえぜ」 と言って、物置の戸をさっ
 
と開いた。
 
 そこには一人の少女が立っていた。 あどけなさの残るその顔――まだ子供
 
じゃないか。 恐怖に震える少女を前にして、自分もまた立ちすくんだ。
 
「おい、ジェラルド、そいつを見張ってろ。 先にやっててもいいが独り占め
 
するなよ。 すぐに戻って来るからな」
 
 男たちは笑いながら次の獲物を求めて部屋を出て行き、俺は少女と二人だ
 
け部屋に取り残された。
 
 この少女をどうすればいいのか、自分には分からなかった。
 
「お願い、殺さないで」
 
 少女はそう言って、俺の前にひざまずく。 その目からみるみる涙が溢れ、
 
流れ落ちていく。
 
 俺は銃を持ったまま黙って、その少女を見下ろしていた。
 
 自分はこの娘をどうするつもりなのだろう。
 
「お願い、殺さないで」 少女は泣きながら、繰り返す。 「お願いだから」
 
「何もしてないじゃないか」 強張る舌で、やっとそれだけ言うことができた。
 
「殺さないで、お願い」
 
「何もしてないだろう、まだ・・」
 
 少女はそれでも「助けて」 と繰り返し懇願する。
 
「黙れ! 何もしてないって言ってるだろう!」
 
「お願いだから・・」
 
 黙れ、黙れ、黙れ! なぜ黙らない! 俺の中で何か狂い始めた。 どうに
 
かしてほしいのか。 それなら望み通りにしてやる。
 
 俺はマスケット銃を壁に立て掛けた。
 
 
 あの時――俺はあの娘をどうしようとしたのだろう。 あの時、俺の心の中
 
にあったものは何だったのだろう。
 
 しかし、それを確かめる機会は永久に失われた。
 
 男たちが再び部屋に入ってきたのだ。
 
「何やってんだよ。 折角の獲物なのによ。 一番にやらせてやるっていったの
 
に人の好意を無にしやがって。 お前、オカマか?」
 
 男たちは狂ったような笑い声を上げる。 手に持った短剣からは血が滴って
 
いる。 その異常な興奮からもはっきり分かる。 男たちが、この部屋に戻って
 
くる直前に何をしたのか。 男たちは狂気に飲み込まれていた。
 
「やりたくないなら、どいてろ」
 
 男に突き飛ばされ、足を取られて床に尻もちを付いた。  
 
 男たちは四人がかりで娘の四肢をつかみ、テーブルの上に持ち上げ、押さ
 
えつける。 少女は言葉にならない絶叫を上げて身を捩る。 布を引き裂く音、
 
テーブルから跳ね飛ばされた物が床に落ちる音。 男が自分の一物を握り締め
 
て、少女の上に圧し掛かる。 暴れる少女を殴りつけ、男は激しく体を動かし、
 
それと共にテーブルが生き物のように床を動いていく。 娘の絶叫は、やがて
 
途切れ途切れになり、男たちの獣じみた呻きや、狂ったような笑い声だけに
 
なる。
 
 床に座り込んだまま、テーブルの上で行われていることから目を逸らして
 
も、その音や声は容赦なく侵入してくる
 
 
「ほら。 お前の番だぜ」
 
 男たちに乱暴に立たされ、有無を言わさず、ズボンを下ろされる。
 
「なんだよ、勃たねえのかよ」
 
 男たちは再びどっと笑う。
 
 男たちに両側から抱えられ、無理矢理、娘の上に体を重ねられる。
 
 娘の剥き出しになった下半身は既に血の海となり、今、自分の目の前にあ
 
る娘の顔は血と涙と汗と唾液に塗れている。 虫の息となっている娘は、もは
 
や何も懇願することはない。 その目を開けて、静かに目の前にある男の顔を
 
見詰めている。
 
 
 その娘の澄んだ瞳に、泣いている自分の顔が見える。
 
 忘れようとしても忘れることはできない。 ふと気を緩めた時、そして乱れ
 
た夢の中に、今もあの娘の顔が浮かんでくる。 娘の瞳には、泣いている自分
 
の姿が映っている。
 
 
 その五年後、同じ霧の中から、もう一人の少女が現れた。 その少女は、絶
 
望の淵に立たされながらも、なお輝くばかりの命の光を放っていた。 もしも
 
別の場所、別の時に、――いや、別の世界でアンナと出会っていたならと思
 
わずにはいられない。
 
 しかし、遅かった。
 
 死んだ少女は繰り返し俺を嘲笑い、耳元で囁く。
 
 お前のような罪に汚れた人間の屑は、人の愛には値しないと。