第2部 「異端の谷」、第3章「ジェラルド」、第4節 | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

「しかし、今や私を名前で呼ぼうという者はどこにもいない。 最後に名前で呼ばれて
から、随分月日が経つ。 最後に呼ばれた名前――それはエミリオだった」
(前節より)
 
 
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第3章 「ジェラルド」 第7節は 6月15日に投稿します。
 
 
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第3章 「ジェラルド」
 
 
4.   
 
 
 
   一日の仕事を終えて、自分の小屋でうとうとしていると、戸を叩く者があ
 
る。
 
「俺だ。 ジェラルド、開けてくれ」
 
  ヴィートの声だった。 ヴァルドの村に残ることになった俺を引き受けてく
 
れた、俺にとってはいわば後見人であり、兄のような人だった。 表向きは大
 
工仕事や木の切り出しをしている我々の棟梁だったが、裏の意味で言えば
 
部隊長だ。 アンナいわく 「古代の剣闘士のような」 いかつい風貌だが、才気
 
の光るグレタにはまるで頭があがらず、叱られて子供みたいに目に涙を浮か
 
べていたりするのを見ると、たまに首を傾げたくなる時がある。 心根はいたっ
 
て優しく、信仰心に厚い男なのだ。
 
  ヴィートもかつては傭兵であり、部下を率いて戦場を渡り歩いていた。 三
 
十年戦争末期、残忍なことで悪名高い黒鷲ジルドと共に戦ったそうだが、そ
 
の卑劣な行いに嫌気が差し、ジルドと激しく衝突して戦場を離脱、二度と戻ら
 
なかったという。 この森の奥深くにある集落に住んでいる連中は、殆ど全員
 
が以前は傭兵だった男たちだ。 ある者は自分の罪を悔い、またある者は戦
 
争が終わった後、新しい生き方を求めて、この谷に落ち着いたのだった。
 
「何です?  こんな時間に」
 
  戸を開けると、眉間に皺を寄せたヴィートがずかずかと入ってきて、部屋
 
の中央で立ち止まった。
 
「村に変な男が来ている」
 
「変な男、というと?」
 
「何者なのか分からんから困っているんだ。 今、村の酒場にいる。 お前もそ
 
の男を見ておいた方がいいだろう。 ――最悪の場合を考えてな。 アンセルモ
 
とエウジェニオが酒場に行っている。 お前も来てくれないか」
 
  ヴィートの言う最悪の場合とは一体なんのことかと、 訝しく思いながらも、
 
ヴィートについて暗い森を抜け、アーゾラの村の酒場へと向かう。 その酒場
 
は、この辺りでは唯一の社交場であると同時に、宿屋も営んでいることから、
 
旅人や行商人が集ってくる。 最新の世の中の動きについての情報が、ここ
 
からもたらされることも少なくはない。
 
  酒場に入っていくと、一人の男を覗き込むように、客たちがその周りを囲
 
んでいた。 俺とヴィートが入ってきたのに気が付いて、アンセルモとエウジ
 
ェニオが振り返った。
 
  アンセルモは、痩せているせいか、突き出た頬骨や鷲鼻が顔に影を落と
 
し、そこに刻まれた皺と相まって、どこか芸術家を思わせる風貌がある。 し
 
かし、その行動を見ればむしろ道化師に近い。 口を開けば皮肉か冗談しか
 
言わず、生死の掛かった瞬間にも、ふざけて見せるような男だった。
 
  その相棒とも言えるエウジェニオは、対照的に酒樽のような体をした巨漢
 
で、口を開く時は喋るためではなく、食べ物を口に押し込むか、麦酒を流し
 
込む時だけだった。
 
  アンセルモが、こっちに来いと合図して、俺とヴィートのために場所を開
 
けてくれた。 俺はテーブルを挟んでその男を正面から見ることができた。 男
 
は新しく輪に加わった俺たちに鋭い目の一閃を投げ掛けた。 フードを被って
 
いるために、隠れた表情を読み取ることは難しかった。 褐色の髪や髭を伸
 
びるにまかせた様は、放浪者にも世を捨てた聖者にも見える。 しかし、その
 
手の形や動きは優雅と言ってもいいほどで、出自が農民や牧夫ではないこと
 
を雄弁に物語っていた。 年の頃は自分と同じぐらいだろうか。 そして、もう
 
一つ。 ――自分はこの男とどこかで会ったことがあるという強い思いがした。
 
「あんた、旅人かい?  どっから来たんだい?」
 
  俺が尋ねると男は答えた。
 
「私には行く宛も無ければ帰る場所もない。 ただ神のお導きに従うだけだ」
 
「あんた、名前は?」
 
「そんなものに意味は無い」
 
「名前が無かったら、話をするのに不便じゃないか。 ここには大勢、人がい
 
るんだぜ。 一体、何て呼べばいいんだよ」
 
  男は一瞬、躊躇したように思ったが、特にこだわる様子も無く話し始めた。
 
「自分はこれまで、いろいろな名前で呼ばれてきた。 しかし、今や私を名前
 
で呼ぼうという者はどこにもいない。 最後に名前で呼ばれてから、随分月日
 
が経つ。 最後に呼ばれた名前――それはエミリオだった」