第1部 「告白」、第4章「審問」、第9節 (2) | アルプスの谷 1641

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1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 
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第4章第10節は9月1日に投稿します。
 
なお、8月29日には、時代背景として、サヴォイア公妃クリスティーヌ・マリー・ド・フランス
と ピエモンテ内戦 についてに関する記事を投稿します。
 
( 全体の目次はこちら(本サイト)からご覧いただけます )
( 第一章の最初から読む )
 
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第4章 「審問 」
 
 
9. アルベルタ・フォスカリ (フォスカリ夫人) の告白 ( 2 )
 
 
 
 私のサロンに出入りする者のひとりに、テオドロという男がいました。
 
 テオドロが市長のマウリツィオにくっついて、時々夜会に来ていたのは知
 
っていましたが、私個人はその男には全く関心を払ったことはありません。 
 
市会議員の一人でしたが、世辞や追従を並べて世渡りしているような男で、
 
自分とは住む世界が違うと思っていました。 今は落ちぶれ果てた貴族の末
 
裔で、絵画の知識だけはあるようでしたが、なぜ私のサロンに出入りするの
 
か不思議だとさえ思っていました。 突き出た腹が服に収まらず、常に酒臭
 
い息をしているような、だらしのない男でしたから、見た目にも楽しくはありま
 
せんでしたが、少なくとも人の邪魔をすることは無かったし、サロンに人の
 
出入りが無くなった後でも、以前と変わらず訪れてくれるのを、時には有難
 
く思うこともありました。 しかし、そこには別の目的があるかもしれない
 
ということに気付くべきでした。
 
 サロンの中を用も無くうろうろしているテオドロのことは、私は殆ど気に
 
留めたことはありませんでしたが、テオドロは機会を捉えて、私とマウリツ
 
ィオが審問の話をしているのを盗み聞きしていたに違いありません。 それ
 
は、殊に暗く重苦しい夜のことでした。 マウリツィオが立ち去るのを見計ら
 
って、テオドロは、まるで私の行く手を塞ぐかのように、私の前に立ち塞が
 
りました。 テオドロがまだサロンに残っていたことへの驚きと、普段とは違
 
うその不躾な態度から、思わず「そこをどいてください」と声を荒げてしまい
 
ました。 顔を背けた私に、不敵な笑いを含んだ声で、テオドロは言いました。
 
「マウリツィオと何を話していた?」
 
「あなたには関係の無いことです」
 
「関係はあるとも。 俺は異端審問官のジョットーにいろいろ報告する義務が
 
あるからな」
 
 私は息を飲みました。 この男は本気でそんなことを言っているのか? 私
 
は顔を上げて男の目を覗き込みました。 その真っ暗な瞳は、まるで底無しの
 
深淵を見ているかのようでした。
 
「知っているか? マルティーナがお前の名前を魔女の仲間として挙げてい
 
るのを」
 
 私は恐怖に身が竦み、その黒い瞳から目を離すことができませんでした。
 
「なぜお前は自分が審問に掛けられないのだと思う?」テオドロは冗談とも
 
取れるような、人を食った調子で話を続けました。 「ひとつには勿論、俺の
 
お陰だ。 俺が、あんたは利用価値があるとジョットーに吹き込んだからだ。
 
敵を欺き、このサロンに出入りしている奴らの中に新教徒や異端はいない
 
か、情報を引っ張ってくれる協力者だと言っておいたからさ。 ジョットーがこ
 
のサロンの存在を知らないとでも思っていたのか? 新教徒や異端の情報
 
が集まるとすれば、この場所しかないと、ジョットーは以前から目を付けてい
 
たんだ。 俺の言うことが分かるか。 魔女として捕えられたくなかったら、マ
 
ウリツィオを告発しろ。 お前が異端の情報を提供して、ジョットーを満足させ
 
れば、魔女として捕えられることはない。 あんたは敵の目を欺いた協力者
 
だという証明になるからだ」
 
「マウリツィオは異端などではないわ」
 
 テオドロを押しのけて立ち去ろうとした私の顔をテオドロは乱暴に掴んで、
 
無理に自分の方へと向けました。
 
「魔女として捕えられた女たちに肩入れするなら同じ事だ。
 
 あの男がいては都合の悪い人間が、ここには沢山いるということを知らな
 
いらしいな。 奴はカトリック教会からも睨まれているし、サヴォイア公の母
 
君クリスティーヌ・マリー・ド・フランス様も良くは思っていない。 市長の座か
 
ら引き摺り下ろしたいと思っている連中が沢山いるんだ。 奴がいなくなれば、
 
市会参事のコルラードが新しい市長になることになっている。 もう何もかも
 
決まっているんだ。 ただ、この時が来るのを待っていただけだ。 これで何
 
もかもうまくいく。 あんたも助かるし、俺もうまい汁が吸える。 お前はマウリ
 
ツィオが書いたトリノ高等法院宛の手紙を持っているだろう。 それを渡せ。
 
 渡さないのなら、お前は異端審問に掛けられる。 今更、マウリツィオが助
 
けてくれるなどと思ってはいないだろうな。 素直に渡しさえすれば、お前は
 
これまで通り生きていける。 俺がお前を守ってやる」
 
 テオドロは私の顔から手を放し、その指で私の顎を上とゆっくり撫でてい
 
きました。 私の体は震えが止まりませんでした。 それは嫌悪からなのか、
 
それとも恐怖からなのか、私にはもう自分自身が分かりませんでした。
 
 
 
 魔女事件以来、サロンへの人の出入りが途絶え、人目に付くことを恐れ
 
たのでしょう、マウリツィオが私の所へ訪ねて来ることも少なくなっていまし
 
た。 私はマウリツィオの前で以前通りに振る舞うことに困難を感じていたの
 
ですが、結局、マルティーナたちが処刑されてしまったばかりか、彼は奥様
 
を亡くされ、さらには御子息との折り合いも悪く、御子息は父親を捨てるも
 
同然に家を出たとかで、大変、気落ちしていたために、私の方の態度が多
 
少おかしくとも、恐らくは気が付かなかったことでしょう。
 
 マウリツィオが捕えられる前に、私はテオドロに促されるまま、マレドを
 
離れました。 例え逃亡と思われても、街を離れたことは良かったかもしれま
 
せん。 何より、これ以上マレドに残っていることは自分にとって耐えがたい
 
苦痛でした。
 
 テオドロが迎えに来るまでに、私は腰の所まで流れる黒髪を切り、その髪
 
に薔薇の香りを焚いておきました。
 
「私は死んだと、彼には伝えてください」
 
 私はテオドロに薔薇の香りのする髪の束を渡しました。
 
 審問の結果は分かりきったものでしたし、知りたくもありませんでした。
 
私のサロンに出入りしていた人々の中から、他にも捉えられ、審問に掛けら
 
れた人がいました。 その中には、本物の異端もあったと聞いています。 し
 
かし、マウリツィオは違います。 彼は正真正銘のカトリック教徒でした。 彼
 
はキリスト教徒としての自分の良心に従っただけなのです。
 
 私は事件の余韻が治まるまで、テオドロの別宅に匿われていました。 夜、
 
男は当然のように私の寝台の中に入ってきました。 そんな時、私は目を閉じ
 
て、何も考えないように努めていました。 ただ、その時が過ぎ去るのを待っ
 
ているだけでした。 それさえ受け入れてしまえば、単調ではありましたが、
 
特に不自由も無い生活でした。
 
 或る夜、いつものように男は私の足を開き、私の体に自分の肉体を合わせ
 
てきました。 いつもなら目を閉じて終わりが来るを待つのですが、その夜、窓
 
から、月が霞の中で輪光に包まれて輝くのが見えました。私はその光に心を
 
奪われ、それをずっと眺めていました。 すると、男は突然、激昂し、私の顔
 
を拳で殴り始めました。 私はそれでも目を閉じただけで抗うことも無く、男の
 
気の済むままにさせておきました。 噴き出した血で喉が詰まり、男が殴る度
 
に血が飛び散るのが分かりました。 やがて、男は私の体から離れると、よろ
 
めくように部屋を出て行き、その後、二度と戻ることはありませんでした。
 
 翌朝、鏡を見ると血塗れの顔は、誰のものか分からないほどに歪んでいま
 
した。 私はそれを見て微笑みました。 笑ったのは、一体、何か月ぶりのこと
 
かと思いました。
 
 
 
 私は昔から、美しいものだけを見て、自分の好きなことだけを考えて生き
 
てきました。 自分が考えたくないことを頭から追い出すのは、私にとって難
 
しいことではありません。 私は今まで、そのようにして生きてきたのですか
 
ら。
 
 テオドロの別宅で過ごした日々は、思いがけず二年の長さに及びました。
 
やがて、使いの者が来て、私はマレドの街に戻ることになりました。
 
 久しぶりに見るマレドの街は落ち着きこそ取り戻していましたが、かつて
 
の賑わいは失われ、人々の表情には陰が差していました。 私のサロンも昔
 
の面影を留めず、庭に美しく咲き誇っていた薔薇は枯れた茂みと化して、二
 
度と花を付けることはありませんでした。
 
 それはまるで、微かな跡を残して再び戻らない一夜の夢のようでした。