さて、先週に続き、今回は 「アルプスの谷 1641」 の時代、サヴォイア公国に君臨した
公妃クリスティーヌ・マリー・ド・フランス についてお話したいと思います。
(Christine Marie de France, 1606年2月10日 - 1663年12月27日)
クリスティーヌ妃は、1606年、フランス王アンリ4世と2度目の王妃マリー・ド・メディシス
の次女としてパリで生まれ、1619年にサヴォイア公子ヴィットーリオ・アメデーオと結婚し
ました。
お母さんはイタリア・フィレンツェの名門メディチ家の出身で、お父さんはブルボン家とい
うことになります。
この時代、王女の結婚と言えば外交の道具であり、その時々の事情で近隣諸国との
緊張緩和、同盟締結の手段とされました。これにより、
長女エリザベート が スペイン王フェリペ4世に、
三女アンリエッタ・マリー が イングランド王チャールズ1世に
それぞれ嫁いでいます。当然、クリスティーヌの結婚にも、サヴォイア公国をフランスの影響
下に置くという重大な使命がありました。既にお隣のミラノ公国は、イタリア戦争でハプスブ
ルグ家の手に落ちていました。ここでサヴォイア公国に何かあれば、フランスは四方をスペ
イン勢に囲まれるかもしれない危機的状況にありました。 しかし、クリスティーヌ本人は姉妹
が王妃なのに、自分が格下の公妃であることに不満たらたらだったようで、その満たされな
い虚栄心が、栄華を極めたサヴォイア王家の王宮群となって現れたのかもしれません。
夫ヴィットーリオ・アメデーオ1世が 1637 年に死去、クリスティーヌは、4 才でサヴォイア
公を継承した息子カルロ・エマヌエーレ2世の摂政となって公国に君臨します。
( 正確には、カルロには兄フランチェスコがいたのですが、1638年 6 才で夭逝しています )
しかし、スペイン・ハプスブルグ家を後ろ盾とする義弟トンマーゾ・フランチェスコ・ディ・サヴ
ォイアは、ブルボン家出身のクリスティーヌが摂政になることにより、公国でのフランス・ブル
ボン家の影響が増すことを嫌い、反旗を翻します。
ここに「ハプスブルグ家 vs ブルボン家」という宿命の対決そのものの構図ができあがります。
時は三十年戦争の真っ只中、軍隊を使って他国に介入するのに何の躊躇も必要ない世の中
でした。
トンマーゾ率いるスペイン軍はピエモンテに侵入、1639年、ピエモンテ内戦が勃発しました。
スペイン軍はトリノに迫り、ついには市内を制圧しましたが、クリスティーヌはフランス軍に守ら
れて砦に立てこもり、頑強に抵抗します。この戦いは、結局、決着が付かず、クリスティーヌと
トンマーゾの間で 1642 年に和平が結ばれました。 どちらも、大国のスペインやフランスの
思惑に振り回されることに嫌気が差していたのです。 またこの和平は、サヴォイア公国が
フランスやスペインから必要以上の干渉を受けることを防ぎ、公国の独立を守るという結果に
なりました。
( ピエモンテ地方でのフランス対スペインの戦いは、内戦の終結などお構いなしで、三十年
戦争が終わる 1648 年までしつこく続きました。 人迷惑な話です )
政治的には内戦を戦って、サヴォイア公国の独立を守るという手柄を立てたクリスティーヌ
ですが、その後はやりたい放題で、贅を極めた王宮を作って、若い愛人を侍らせ、息子カル
ロ・エマヌエーレ2世が成人しても権力を手放すことはありませんでした。 実をいうと内戦の
敵トンマーゾともできてたという噂があります。 ( もしかして内戦の終結は、この愛欲事情と
関係がある? ) 亡き夫の弟との愛人関係とか、どういうAVシチュエーションでしょうか。
やりたい放題も、王宮と愛人ぐらいなら罪はなかったのですが、王族のサラブレッドとして
深くカトリックに帰依していたクリスティーヌは、宗教に関してもその独善を振るいます。これ
については、本編「アルプスの谷」でおいおい語られることになるでしょう。
気分は女神様!