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先頃、東京にある「三の丸尚蔵館」と「国立博物館(東京)」にて、万葉集の展示がありました。
同じ時期に別々の冊子が見られるのは珍しいことでしょう。というわけで実物を見に行ってきました。
万葉集といえば…
万葉集は日本最古の和歌集です。編纂したのは奈良時代の役人で、歌人としても有名な大伴家持とみるのが有力です。
原本は失われていますが、古写本は現存しているのでその内容がほぼ現代に伝わっています。
全文が漢字で書かれていて、平安時代の初期にはすでにその読み方が分からなくなっていたそうですが、漢字で書かれた部分と、漢字の「音」で書かれた日本語の部分とが混在していることが明らかになってからはその解読研究が盛んに行われるようになりました。
平安時代には専門のチームを組んで国家プロジェクトとして研究された時期もあるとか。
万葉集といえば、年号「令和」の出典となったことで話題になりました。今回は見られませんでしたが、巻五の中のある一節からとられました。
それまでの年号が中国古典からの出典だったのに対し、初めて日本の古典からの出典となりました。
今に伝わる写本はいくつかありますが、特に平安時代に書き写された「元暦校本、天治本、桂本、藍紙本、金沢本」は優れた写本として「五大万葉集」と呼ばれ、桂本は御物に、元暦校本、天治本、藍紙本、金沢本はいずれも国宝または重要文化財となっています。
今回はそれらのうち、金沢本と元暦校本の2つの国宝を見ることができました。
それでは早速、訪ねましょう。
金沢本 万葉集
まずは三の丸尚蔵館から。
終了してしまいましたが、展覧会「公家の書―古筆・絵巻・古文書」(令和6年12月まで開催)で展示されていました。
「金沢本」といわれる写本です。加賀藩前田家が所蔵していたものの一部が明治天皇へ献上されたことで御物となりました。
今回の展示は皇室に渡った巻第二と巻第四の一部が展示されていました。
これは献上の際に一帖にまとめられたため、国宝に指定されたのは一点のみですが、今回、4回に分けて2巻分の各ページを見ることができました。
金沢本万葉集は文学としても貴重なのですが、書道の上でも、紙の歴史の上でも貴重な史料なのだそうです。
まずは文学の上から。どんな点が貴重なのでしょうか。
それはもちろん、万葉集の内容を伝える古い写本のひとつであること。
金沢本には古代に読まれた和歌が一首ごとに「万葉仮名」「ひらがな」の順に書かれています。
上の写真は
「みこもかる しなののまゆみ ひかずして しゐさるわざを しるといはなくに」
「あずさゆみ ひかばまにまに よらめども のちのこころを しりかてぬかも」
「あずさゆみ つるをとりはけ ひくひとは のちのこころを しるひとぞひく」
の3首が書かれています。
恋の歌のようですね。「万葉集」が編纂された時代は、男の人が女の人のところへ訪ねる「通い婚」が普通でしたから、女性が朝になって男の人が帰るときの心情を読んだ句のようです。切ない気持ちが伝わってきます。
他にもいろいろなことがわかります。「信濃の真弓」は強力な弓として信濃国(現在の長野県)の名産だったらしく、それに「梓弓」を掛けているのです。「弓を引く」と「(あなたの)気を引く」を掛けて読み込んでいるところも上手だな、と思います。「みこもかる」は「三薦苅る」で、信濃の真弓にかかる枕詞です。
日本人はこういったシャレとか語呂合わせ、韻を踏むなどホントに得意ですよね。こういうのが後の「万歳」に通じて娯楽となり、現在の「漫才」にもなっていくのですから、おもしろいですよ。
そして書跡。
伝承では源俊頼の筆跡とされたそうですが、現在では世尊寺流・藤原定信のものとする説が有力です。ひらがなは連綿とした草書、万葉仮名は行書です。
書道はよくわからないのですが、達筆なのはよくわかります。よく「伸びやかな筆跡」とかいいますけど、こういうサラサラ、サラっと書かれたものをそういうのでしょう。
そして装飾。
読むだけでなく、眺めても楽しめるように紙は高級な唐紙「料紙(りょうし)」に書かれています。
そして光を当てるとキラキラと絵が浮かび上がります。雲母(うんも)の粉を膠に溶いて印刷したもので「雲母摺り(きらずり)」といいます。キラキラだから「きらずり」ではありませんが、キラキラしてますよね。
こういった装飾は贈答用の冊子に使用されたと考えられています。
描かれた絵も「瓜」や「菊」「雛菊」などの季節の食べ物や花、「雲雀」などの鳥が描かれていて、見ていて飽きません。
元暦校本 万葉集
続いては東京国立博物館所蔵「元暦校本 万葉集」を訪ねました。
こちらも展示は終了してしまいましたが、国宝室での常設展示だったのでいずれまた展示されることでしょう。
もちろん国宝です。全20冊が残されていて、収録された歌数が多いことでまた一層、貴重とされます。
こちらも料紙に書かれていて、達筆というより丁寧な筆跡です。万葉仮名は楷書だし、ひらがなも草書ですが連綿としておらず、一字一字丁寧に書かれていて、書道に親しみのない私のような者でも読みやすいです。
古川本 巻第一「茜草指 武良前野逝~(あかねさす むらさきのいき)」
古川家に14冊、皇室である高松宮家に6冊が分れて伝わりました。「古川本」と「高松宮本」といわれ、それが国立博物館に集められて所蔵されるようになり、「元暦校本」と呼ばれています。
古川本 巻第一「「茜草指 武良前野逝~(あかねさす むらさきのいき)」
料紙は紫色や藍色の飛雲を漉き込んだ鳥の子紙を使用しています。
上のページは有名な
「茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる」
額田王の一句です。読みやすいでしょう?
書き込みもあって、研究にも使われたのでしょうか。万葉仮名をどのように読んでいたのかもわかります。
次のページには
「むらさきの にほへるいもを にくくあらは ひとつまゆえに わかこいひめやも」
イヤン!
不倫の歌というか、横恋慕の歌ですよ。そういうことは昔からあったんですね。先の額田王の歌と合わせて、天智天皇と天武天皇との三角関係の話は有名ですから。
和歌としては素晴らしいけど、こんな形で不倫が今に伝わる額田王って…
というのは現在の感覚なんでしょうか。古代の「文春砲」です。
高松宮本も展示がありました。
巻第十九にある、大伴家持がホトトギスを詠った歌です。
ひらがながないのですが、
「二上之峯於乃繁尓 許毛里尓之 彼霍公鳥 待騰来奈賀受
(ふたかみの おのえのしげに こもりにし そのほととぎす まてどきなかず)」
そろそろ二上山の尾根で鳴き始めるはずのホトトギスだけど、まだ来ないよ、と詠っています。春が来るのが待ち遠しい心情が伝わってきますね。
歌心のない私は、こういった繊細な風景をサラリと五・七・五・七・七の短歌に読み込んでしまう昔の人の知性の高さに憧れてしまいます。
その続きにあるのは
春日若宮の御祭の日に、光明皇后(聖武天皇の皇后)が遣唐使となった藤原清河に贈ったという歌と、その返答歌です。
「おおふねに まかぢしじぬき このあこを からくにへやる いはへかみたち」
(大きな船に舵をたくさん取り付け、このいとしい子を唐へ遣わします。神様たちよ護らせ給え、加護あらんことを。)
「かすがのに いつくみもろの うめのはな さかえてありまて かえりくるまで」
(春日野に祀られる神の社の梅の花よ、帰ってくるまで咲いて待っていてくれ。)
素敵なやり取りですね。目に浮かぶようです。
元暦校本は一応、料紙装丁ですが金沢本と違って「見ても楽しめる」といった感じではありません。どちらかというと読むためのもの、といった印象でした。
その意味でまじめに後世へ万葉集を伝えようとして編集されたのかもしれないですね。