群馬県嬬恋村・天明3年浅間やけ遺跡を訪ねる ー 火山災害の痕跡をなまなましく残す | 名宝を訪ねる ~日本の宝 『文化財』~

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日本は災害大国です。

 

「地震、雷、火事、おやじ」と、昔から言われていますし。

 

かくいう私も、2011年には東日本大震災を経験しました。今回はそんな日本で起こった火山災害の遺跡を訪ねました。

 

 

 

とはいえ、この遺跡は今のところ国指定文化財とはなっていません。

 

このブログは国指定文化財を紹介しようというブログなので、趣旨に反しています。

 

しかし、この遺跡の存在を知ってから今まで、こういった遺跡を今後は国で保護しなければダメだろう?との想いはずっとありました。

 

ですので趣旨とは違いますが、ここで紹介させていただきたいと思います。

 

ただ今回、現地を訪ねて初めて知ったのですが、現地で国の史跡指定へと動きが起こっているという話を聞きました。そのための調査も進んでいるということです。将来が楽しみです。

 

国指定のあかつきには「鎌原遺跡」の名称で周辺のいくつかの史跡を含めて指定されるようです。

 

 

 

訪ねたのは群馬県嬬恋村鎌原にある、「天明三年浅間やけ遺跡」といわれる遺跡です。

 

 

嬬恋村といえば関東地方に住んでいる私たちには「高冷地野菜栽培の村」として知られていて、「キャベツといえば嬬恋」のイメージです。ただ、正直なところそれ以上のことはほとんど知らない村です。

 

そんな村ですが、江戸時代には大規模な火山災害を受けて壊滅的な被害を受けていて、その痕跡が今でも残っていると聞いて訪ねてみました。

 

 

 

ここからの出土品は遺跡内にある「嬬恋村郷土資料館」に展示されています。先にこちらの展示をご覧になってからの散策をお勧めします。

 

 

 

鎌原遺跡は指定する予定の範囲がわからないので、今回は噴火に伴う土石流で埋まった村の跡とされる場所を訪ねました。

 

北陸新幹線で群馬の商都・高崎までは我が家からだいたい1時間くらい。ここでJR 吾妻線に乗り換え、長野原草津口駅で下車します。

 

駅からバスはあるのですが本数が少ないのでご注意ください。「鎌原観音堂前」で下車すれば、そこはもう鎌原遺跡の上に降り立っています。

 

天明3(1783年)年7月8日(旧暦)、今でも活火山としてその名が知られる浅間山は大噴火をしました。このときに発生した火砕流や土石流は周辺の村々に甚大な被害を与え、「天明の浅間焼け」として現在まで語り継がれているのです。

 

このとき、鎌原村は噴火に伴って発生した大土石流に巻き込まれ、村落がまるまる埋没しました。

 

村の高台にあった鎌原観音堂は土石流に埋まることなく、現在に至るまでその姿を伝えています。
 

 

鎌原観音堂

 

そして当時、ここに避難した人だけ生き延びたのです。

 

現在、鎌原観音堂への階段は15~16段ほどしかありません。

 

鎌原観音堂の「生死を分けた石段」

 

しかし、当時は50段近い石段だったそうです。石段の下方はその土石流に埋まってしまったのです。

 

昭和54年、この石段の下方を発掘調査しました。すると、現在の石段のすぐ下から2人分の人骨が出土しました。一人は若い女性、もう一人は年老いた女性と判明し、若い女性が高齢の女性を背負っていたことまでわかるほど状態の良い遺骨だったそうです。

 

この二人は母親と娘だろうと言われています。年老いた母を背負って娘がこの石段まで逃げてきて、土石流に巻き込まれたものと見られています。

 

このことからこの石段は「生死を分けた15段」ともいわれています。

 

 

 

鎌原村は当時、人口がおよそ570人ほどの集落でした。しかし、この高台に逃れられたのは93名とされています。480人近くがこの土砂の下に今も埋もれています。

 

参道の赤い橋が印象的ですが、実はこの赤い橋の下には発掘された石段がそのまま、今も保存されています。

 

発掘された「埋もれた石段」

 

発掘された親子も、この石段で見つかりました。

 

ところで鎌原村はあらゆるメディアで「火砕流によって埋没した」と解説されていますが、正確には火砕流ではなく「浅間山噴火によって噴出した溶岩が引き起こした土石流に埋まった」のだそうです。

 

些細な違いのようですが、とても重要です。火砕流は火山から噴出した高温のガス・火山灰・軽石・熔岩が高速度で流下する現象。

 

一方、鎌原村が巻き込まれたのは溶岩の噴出による山体の膨張で発生した土石流なのです。発掘調査で、出土品が被熱していないことからもそのことが立証できました。鎌原村を襲った土石流は6mもの堆積層を形成しました。

 

当時の鎌原村は現在も6mもの地下に埋もれたままとなっています。

 

村を襲ったのは「火砕流」ではなく「土石流」だった。このことは次回に紹介する「浅間山溶岩樹型」とも関連するので、重要なポイントなんですよ。

 

 


埋没した鎌原村の遺跡は、郷土資料館からさほど離れていない場所でも調査されました。ここからは当時の村の中心的建物だった「延命寺」の跡が発掘されました。

 

ここからは当時ここにあった延命寺という寺院の建物が、土石流に潰された状態で出土しました。梁などの建材や、障子などの建具が焼失することなくそのまま出土しています。

 

延命寺跡の出土品も嬬恋村郷土資料館に展示されていました。撮影禁止なのが残念です。

 

延命寺跡

 

浅間山は活火山なので、古代から「猛る山」として神格化され、「浅間大神」と称されました。当地の延命寺はその浅間大神の別当として隆盛を極めたお寺だったといいます。しかし、天明の噴火では鎌原村と共に土石流に巻き込まれて埋没しました。

 

延命寺跡も6mもの土石流層の下から発見されました。

 

 

そして、この噴火による火砕流や土石流は付近を流れていた吾妻川に流れ込み、火山泥流となって周辺一帯を襲いました。またそれらの土砂が川をせき止め一時的なダムとなり、そのダムが決壊して大規模な水害も引き起こされました。

 

その際に延命寺の入り口にあった石標が流されました。石標は後に約20kmも下流の河原から見つかり、鎌原村のあった場所に戻されました。

 

 

これがその石標です。郷土資料館の前庭に展示されています。

 

「延命寺」の石標

 

天明の浅間山噴火は噴火に伴って様々な災害を引き起こし、広範囲に大きな災害を引き起こしました。そのため「天明の浅間焼け」と呼ばれて今でも語り継がれています。

 

 

その「天明の浅間焼け」の甚大な被害を伝える、もう一つの遺物が鎌原観音堂の前にありました。それがこの「三十三回忌供養塔」です。

 

三十三回忌供養塔

 

この供養塔、碑面の四方にびっしりと文字が刻まれています。

 

この文字は「天明の浅間焼け」で土石流に巻き込まれた鎌原村民、477名の戒名が刻まれているんです。

 

三十三回忌供養塔に刻まれた戒名

 

三十三回忌ですから天明3年の33年後、すなわち文化12(1816)年に近隣の村々からの援助も受けて建てられたものです。

 

被害の壮絶さを肌で感じ、身震いしました。

 

 

鎌原村は生き残った93名で再建を目指しました。夫を失った人、妻を失った人、子どもや親を亡くした人などが協議し、妻を亡くした人には夫を失った人との再婚を促し、親を失った子供は村民が面倒を見るなどして、とにかく村の再建に努めたのです。

 

そうやって、もとの鎌原村を埋めた土石流の上に、再び村落を築きました。それが現在の嬬恋村鎌原地区となります。

 

現在の鎌原集落

 

村がそのまま埋まっている土の上に、新しい村をつくる。土の下には、自分たちの親族や親しくしていた隣人が埋まったままになっている。

 

想像するだけで、生き残った人たちの悲痛と絶望が伝わってくるようです。

 

そんな中で村落の再建を決意したのは、相当な覚悟があったことでしょう。目の前に広がる穏やかな村落は、そんな悲惨さを全く感じさせません。

 

しかし、そんな歴史があってこの集落があることを思うと、自然と涙が溢れてきました。

 

 

 

その後、当時の大噴火によって噴出した溶岩が残る「鬼押し出し園」を見に行きました。

 

鎌原地区から「鬼押しハイウェー」という有料道路をひたすら南下します。30分ほど走ると途中、料金所がありますがその手前を右折すると「浅間山溶岩樹型」のある別荘地の方に向かって行きます。

 

ここは直進して料金所を過ぎます。そのすぐ先に「鬼押し出し園」の駐車場がありました。

 

ここは平日・休日に関わらず大勢の観光客が訪れるようです。この日もバスツアーと見られる大型バスがたくさん見られました。

 

駐車して、鬼押し出し園へ行ってみましょう。ゲートで入園料を払って中へ入ります。

 

するとそこには見渡す限り、黒い巨岩、巨岩、巨岩…

 

累々と積み重なった巨岩が広がっています。

 

鬼押し出し園

 

ここは当時噴出した溶岩が冷え固まった状態でそのまま見ることができる場所で、まるで鬼が押し出したような巨岩が累々としていることから「鬼押し出し」と呼ばれています。

 

 

 

 

この日は天候が悪く、その姿を見ることはできませんでしたが、天気が良ければ眼前に浅間山のそのお姿を望むことができます。

 

鬼押し出し熔岩と、雲に隠れた浅間山

 

 

どこまで行っても目に入るのは黒い大きな岩ばかり、なかなか壮観です。

 

巨大な溶岩

 

 

この大量の溶岩で山体が膨張し、土石流が引き起こされたわけです。とてもよく理解できます。

 

土石流が流れ下った鎌原地区の方を眺めてみました。

 

溶岩流は先へ行くほど薄く広がるのでしょう。その先は原生林に還りつつありました。

 

原生林に還りつつある鬼押し出し熔岩

 

 

大きな岩は隙間をつくり、冷たい風が吹き出てきます。これらの穴を「風穴」といいます。

 

鬼押し出しでは利用したという話は聞きませんでしたが、年間を通して冷たい風が出てくるので、こういった穴を明治時代には冷蔵庫代わりに使ったところもあります。

 

群馬にある蚕の卵の貯蔵所だった「荒船風穴」などはその例ですね。

 

熔岩の隙間「風穴」

 

 

風穴の一部ではヒカリゴケが見られました。高冷地で環境が安定していないと見られないので、珍しいです。

 

風穴内に見られたヒカリゴケ

 

天明の浅間焼けは、我々が暮らす現在ではその噴火の壮絶さを実感することは難しいです。

 

しかし、その痕跡はこのように今になまなましく残り、その様子を知ることはできます。そこから防災に関する様々な知見を得ることもできます。

 

そんな貴重な史跡や自然を、いつまでも後世に伝えたいものです。

 

 

 

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天明3年浅間やけ遺跡 (昭和31年6月 群馬県指定史跡、群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原ほか)

 

江戸時代の天明3(1783)年、浅間山が噴火しました。この噴火活動は3ヵ月ほど続きました。その中で7月頃(旧暦、現在は8月頃)、大災害をもたらした噴火が起こりました。これは割れ目噴火だったといわれています。噴出した溶岩は膨大な量で、山体が膨らみ堆積が増加しました。増加した土砂は土石流を引き起こし、山麓に被害をもたらしました。この時の噴火で噴出した溶岩が「鬼押し出し熔岩」で、嬬恋村南部にある「鬼押し出し園」のような奇観を作り出しました。

 

土石流は約7km離れた鎌原集落を襲い、集落をまるまる土砂の下に埋もれさせたのです。突然の土石流に村人たちは逃げることも敵わず、477人もの村民は土砂に襲われて命を落としました。かろうじて高台にあった鎌原観音堂に逃げられた93名のみ生き延びることができ、この人たちが村落を再建させました。

 

天明の浅間焼け遺跡には「延命寺跡」、生き延びた人たちが逃げ着いた「鎌原観音堂」、噴火から33年後に築かれた「三十三回忌供養塔」が残されています。また村内には噴火直後、しばらくの間溶岩流で加熱された水が湧いたので温泉水を引き、湯治場とした「大笹温泉引湯道」という水路跡なども残されています。