毎度、当ブログへお越しいただき、ありがとうございます。
年度末を迎えてにわかに忙しかったため、更新が滞ってしまいました。本年度も引き続き全国に残された名宝を紹介していきますので、よろしくお願いします。
今回は「ふじさんミュージアム」に展示されている「吉田の富士山信仰用具」を紹介します。
富士山は古来より信仰のための山でした。しかし江戸時代に入ってから、その信仰が大衆化し、一気に登山者が増えました。
その頃から「富士山」は絵画や工芸品の題材として取り上げられるなど、まさに「日本人の心」として日本を代表する存在となっていったのです。。
江戸時代の大衆信仰の隆盛を伝える品々が「吉田の富士山信仰用具」なのです。
富士山の大衆信仰は江戸を中心として旧武蔵国、相模国、下総国といった地域で広く行われ、それを担った「富士講」の名残は現在まで関東圏に多く残されています。
私も埼玉県に住んでいますので、家のそばを歩けば「富士塚」や「富士講の碑」をよく見かけます。
だから富士講には馴染があるのですが、ここはその総本山です。どんなものが見られるのか、とても期待して歩みを進めました。
「ふじさんミュージアム」は、富士山の信仰登山の拠点だった富士吉田市下吉田地区を中心に残された、富士講と富士講による登山を支えた御師の活動を伝える数々の品を収集し、富士山信仰に関する研究を行うために造られた博物館・研究拠点です。富士吉田市内にあります。
富士山を目の前に臨み、まさに富士山研究にふさわしい場所でしょう。
入口を入ると「吉田の富士山信仰用具」の概要を解説する大パネルがあり、その思い入れが伝わってきました。
そして富士山の信仰といったらコレ!という品物が最初に置かれていました。
それがこちら。「木花咲耶姫」像↓
富士山を象った台座の上に、宝珠形のガラス容器に収まって女神の像が立っています。
「そうだよね、富士山信仰を象徴するものといったらコレだよね。」と妙に納得してしまいました。
ここからほぼすべての展示品が国指定文化財(一部、周辺の遺跡からの出土品も展示されたりしていて、すべてではありません。ただそれも富士山の信仰に関わっています)。
「こんなものもあったなんて。」というものも多く、この博物館に来てよかった、おもしろかった、と思える展示品ばかりでした。
ひとつずつ紹介します。
下の写真は富士講で使われていた祭具です。神具と仏具が混じったような、それでいて富士山信仰として統一されているような、そんなところは日本人らしいと思います。
神棚もありました。展示名称は「神殿」とありましたが、要は神棚でいいと思います。細部まで造り込まれ金箔が貼られ、まるで日光東照宮を彷彿とさせる作り込み様は、富士講の収益を象徴しているようです。
この中に冒頭で紹介したような神像を祀っていたんですね。あと、下の写真のような像も一緒にお祀りしていたんだそうです。
この像は神様ではありません。富士講による富士山信仰を確立した功労者、とでもいうのでしょうか。でも伝説的な人で、神格化されていたみたいです。
中央の人は食行身禄(じきぎょうみろく)という人で、富士山信仰における「教訓」(神様の教え)を説いた人です。
その遺訓を説いた方法と内容が伝説的で、富士講による富士山信仰が大流行するきっかけとなりました。だから神格化されているんです。
というのも、もともと商人でしたが富士山で修行する行者に弟子入りして修行し、教えを説きました。まずその内容がわかりやすかった。
「心を正しく持つこと。早寝早起きして昼夜怠けずに働くこと。無益な殺生はしないこと。」など、とにかく大衆にもわかりやすく、実践しやすかった。
そして富士山で入定するのですが、死ぬまでの三十一日の間に「三十一日ノ巻」という遺訓を残しました。それが上の内容を含むもので、その最期を看取ったのが両脇に座る二人だった。左が「三十一日ノ巻」を書き取った弟子の北行鏡月、右がその息子・仙行伸月で、茶碗に雪を盛って身禄の死に際まで持っていたそうです。
その茶碗も展示されていました。実物かどうかはわかりませんが、文化財指定品です。ここに雪を盛っていたため、「雪見茶碗」と呼ばれています。
食行身禄の遺品とされているものも結構残っているらしく、展示されていました。本物かどうかは怪しいですが、いずれも文化財指定されています。「重要民俗文化財」という感覚からすれば個人のものって「?」なのですが…
富士講では食行身禄が書いた「御身抜」を本尊としていました。これは「身を抜いて授けられた心法の御文」という意味で、神仏名とその心得のような一文が書かれていました。富士登山ではこれを「御身抜入れ」に入れて背中に背負って登ったんだそうです。
ちなみに展示品は食行身禄自身の直筆で北行鏡月に書き与えたという、いわば「御身抜」の原本、御身抜入れはこれを入れていた物だそうです。本物かなぁ?
富士登山をする人たちが身に着けていたという鈴も展示されていました。
富士山では猿が神聖視されていたため、猿をモチーフにしていました。
ちなみに登山者の代表である「先達」と、登山者の荷物を担いだり登山道の案内をしたという「強力」は、このような服装をしていたそうです。
先達は行衣に一合目からの「朱印」を押してもらい、登頂の証としました。袖口には御師の外川家から発行された「修行の免許証」も縫い付けられています。行衣は洗わなかったらしく、最後は行者と共に墓に埋めるものだったそうです。
そして富士講の富士山信仰登山を支えたのが「御師」といわれる人々でした。御師は富士山麓に多くいました。御師の家といわれるものは今では市内の下吉田地区に数軒、しかも旧態が完全な形で残っているのは2軒のみとして世界遺産にもなっていますが、御師の集落は古くは静岡県側にも広く分布していたそうで、富士講の登山拠点になっていました。御師は信仰登山のための宿泊場所を用意したことが有名ですが、その活動内容は広く多岐に渡っていて、富士山への祈祷を行なっていたり、江戸での布教活動もしていたようです。
詳しく書くとここでは書き切れないので割愛しますが、「え?そんなことまで?」みたいなことも多く、おもしろいのでもっと調べてみたいと思いました。
そんな御師が、江戸や江戸からの道中の宿泊場所で富士登山者の誘致活動を行っていました。これはそのための立て札です。
要は富士信仰の宣伝のための立て看板ですね。上の写真のものは江戸・板橋宿に掲げられた万延(1860)元年の「庚申御縁年」の時のものだそうです。庚申年は富士山が生まれた年とされていて、特に御利益があるとされました。
そして講社は道中や御師の家、山小屋に宿泊すると、このような幟を建てました。「布マネキ」といいました。
「矢沢貸衣装店」は、明らかに富士講ではないです。行衣(登山時に行者が纏った衣装)などを扱っていたんでしょうか、宣伝用ですよね。所在地がわかるし、電話番号とかも書いてあるし。おもしろいなぁ。
富士講も関東一円に広がっていたことがわかります。志木駅とか、今の東武東上線沿線じゃないか、ご近所だわ。
また御師の家には、各講社から寄進された様々な道具も残されていました。
それぞれに寄進した講の紋が描かれていて、どこの講なのかが一目瞭然なのがおもしろいですね。池袋とか神田とか、JR山手線ですか、って感じで。しかもまた高級そうなものばかり。昔も今も、宗教にはたくさんお金が集まるものなんですね。
御師は宗教的な活動も行っていて、祈祷や祈祷札の配布なども行っていました。
木花咲耶姫の木像は、御師の家に信仰登山のために宿泊した講社の人々が登山前に祈祷するための神像です。
富士山が象られた石です。これも御師の家の祭壇にあったそうです。もちろん、指定文化財です。
そのような祈祷を担ったのも御師の人々でした。また、いわゆるオフシーズンに江戸で配布した、安産や火災、盗難除けのお札や
「ふせぎ(富世貴)」(悪いものが入ってこないよう、村の辻や家の間口に貼った札)札も展示していました。
各御師の家にはほぼ一定の講社が固定客としてあったようですが、山開きされる以前の普段からこのような布教活動というか、誘客活動も行っていたそうです。
また山小屋も富士登山には欠かせない存在でした。山小屋には講から寄進された「板マネキ」が掲げられていました。
これらの品々は、いかに富士講の信仰が様々な人々を支え、支えられて広まったのかが窺い知れる膨大な遺産でした。
最後に、有形民俗文化財には指定されていませんが、重要無形民俗文化財に指定された「吉田の火祭り」に使用される神輿の写真を紹介します。
「吉田の火祭り」は、富士山の山閉まいを象徴する祭りとして有名です。下吉田地区に掲げられる巨大な松明の炎が祭りを彩り、世界遺産の構成資産ではないにしても、世界遺産「富士山」には欠かせない行事です。
まずは古い「吉田の火祭り」の様子を描いた錦絵です。明治時代の初めごろのもののようです。
そして、火祭りに使用される富士山の神輿です。一代前のものだそうで、現在使用されているものは北口本宮浅間神社境内の諏訪神社拝殿に常時置かれていて、いつでも見ることができます。
いやぁ、ここまで富士吉田市下吉田地区を中心に残された富士講の遺物を見てきましたが、これだけ集まると壮観ですね。
我が家の周辺にも富士講の石碑や富士塚があるので、もっと調べたら吉田の富士山信仰用具との繋がりも発見できるかもしれません。
そうしたらまた趣味が増えてしまって、仕事より忙しくなるかも?…
--------
吉田の富士山信仰用具(令和4年3月・重要有形民俗文化財 山梨県富士吉田市)
「吉田の富士山信仰用具」は、富士山北側の登山口であった吉田口に主に伝えられた富士山信仰用具類で、市内の各家から「ふじさんミュージアム」の前身である「富士吉田市郷土館」へ寄贈された4,039点にのぼる資料から成ります。
いわゆる「神奈備形」の秀麗な山を神聖視する民間信仰は日本各地で見られますが、富士山をご神体として崇める「富士山信仰」は有史以前から見られるもので、平安時代の記録にも残されています。特に吉田口は江戸時代以降、富士登拝を目的とした富士講が江戸を中心に関東地方で盛んになると登山の基地となり、一大拠点として栄えました。本信仰用具は富士登山を目的とした講社の世話をした御師や、各地の富士講から寄進された資料が多く含まれます。また富士講中興の祖といわれる食行身禄に関する資料も含まれています。
吉田の富士山信仰用具は、富士講を中心とした進行する側と、御師を中心とした進行を受け入れ、広めた側の用具が一体的に見られ、吉田口における富士山信仰の実態をよく示しています。そのような点が重要とされて国指定文化財となりました。(富士吉田市教育委員会ホームページの文章を改変)