今回もご覧いただき、ありがとうございます。
今回は千葉県の阿玉台貝塚と良文貝塚を訪ねました。
…とはいえ、写真を見返してみると実に地味な場所だなぁ、と。
見所らしいものが何もない…。
でも、阿玉台貝塚は考古学ファンならきっと一度は耳にしたことがある遺跡だろうと思います。
なぜなら、東関東の縄文中期標式土器である「阿玉台式土器」の命名元となった遺跡なのですから!
良文貝塚はその近くにある国指定史跡の貝塚だから、足を伸ばして見に行ってみました。
私は千葉県内を車で走っているとき、似たような地形が窓外にずっと続くのが気になります。
それが、「水田地帯に伸びる、台地から張り出した尾根」です。
まさにこんな感じ↓
今回、阿玉台貝塚と良文貝塚を調べてみて、この地は太古の昔「入江」だったことを知りました。
台地が半島で、車が走っている水田は海の底だったのです。
縄文海進というものですね。この時代の海は今より海面が25mほど高く、東京湾も“奥東京湾”といって関東平野の奥まで広がっていたと考えられています。
だから千葉県では、といいますか、千葉県内に限らず関東の貝塚は台地の上にあります。
昔の人は海から遠い台地の上に海の貝殻が積もっているのを見て不思議に思ったらしく、「ダイダラボッチが台地に腰かけて、海に手を伸ばして貝を採って食べた跡だ」なんて伝説が生まれました。
常陸国風土記の一節にある話です。この貝塚とは茨城県水戸市内に今も存在する「大串貝塚」だそうです。
阿玉台貝塚と良文貝塚もそんな台地の上にありました。良文貝塚に至っては今は谷戸となったかつての入江の奥の斜面に点在していました。
考古学ファンが一度は訪ねてみたい聖地(?)阿玉台貝塚と、太古の入江の風景を残している良文貝塚を訪ねてみましょう。
って意気込んで訪ねたのですが、阿玉台貝塚は台地の上、人家もまばらな集落の中の墓地と成り果てていました。
近くに駐車スペースはないので、路駐しかありません。付近に車を停めて解説板のある所へ行きました。
『考古学ファンが一度は訪ねたい聖地(?)じゃなかったんかい!」というツッコミが入りそうなほど、人通りはありません。
解説板の脇に台地上へ登る歩道があります。ここを登ると「国指定史跡 阿玉台貝塚」の標柱のある墓地があります。
ただ、この墓地内に貝塚はありません。阿玉台貝塚は環状貝塚と説明されており4つの貝層が発見されているそうですが、いずれの貝層も台地の辺縁斜面にあって藪に還ってしまい、見られるところがありません。
今回は比較的見学しやすかった第一貝層を見てきました。第一貝層へは一旦、登り口へ戻り、車道をやや下った先に分岐する山道へ入ります。
この山道に入ってすぐ右側の斜面に貝層があります。Wikipediaでは馬蹄形貝塚と説明されていますが、一般的な貝塚の形成理由である、集落の廃墟に貝殻を捨てていったから馬蹄形になったというより、入江の一番奥の海岸に貝を捨てていったから結果的に丸く分布している、というイメージで、馬蹄形貝塚という説明には首をひねってしまいました。
現在は斜面に貝がバーっと散らばっているのが見られるだけでした。
それも、斜面の草の下になっていて貝は写らず、写真に撮ればこんな感じです↓
…写真下に少しばかり貝が写っています。
ここから出土した土器が基準となって、縄文中期中庸の標式土器として遺跡名をとり、「阿玉台式土器」と呼ばれています。
阿玉台式土器は胎土に雲母や長石の砂が入っていて、表面がキラキラしているので一見してわかります。東関東の縄文中期を代表する土器なんですが…
出土した遺跡のほうは訪れる人もなく、森の中で藪へ還ろうとしていました。
何か一抹の寂しさを感じながら阿玉台貝塚を後にして、続いて付近にある良文貝塚を訪ねました。こちらも今はのどかな集落の中にあり、訪ねる人もまばらな感じでした。
良文貝塚は縄文後期の貝塚で、周辺の谷戸の斜面に貝層が点在しています。1~10までの貝層が見つかっていて、そのうちの一部が国指定史跡となっていました。
写真を見れば、谷戸の地形になっているのがお分かりいただけると思います。この傾斜地に貝層があるのです。
上の写真で、カーブ右手の所が第7貝層です。その先に、下の写真の標柱があります。標柱の後ろの斜面が第6貝層です。
史跡を示す標柱には「史蹟 良文村貝塚」とあります。“史跡”が“史蹟”となっていたり、“良文村”となっていたりするのを見ると指定されたのが昭和の初めだとわかります。
良文貝塚は国指定史跡になった時、村人たちが「良文村貝塚史蹟保存会」を組織して貝層見学施設をつくったりしたそうです。
当時は見学者も多かったのでしょう。貝塚が珍しかったんでしょうか。
3ヶ所に貝層断面観察施設が設けられたそうです。そのうち一か所が今も第7貝層に残っていて、現在でも貝層が見られます。扉のガラス越しに見ることになります。ただ、このガラスが曇っているうえにコケや汚れが付着してしまっていて見づらかったです。
地元の有志が管理しているのですから資金とか限られているでしょうし、管理が行き届かないのは仕方ありません。見られないよりはましかな。
のどかな風景でしょう?貝層が見られないのが残念です。
第7貝層から台地の尾根を越えたところに、第8貝層があります。
こんな急斜面の途中に貝層があるというのですが、貝は見られませんでした。
そして、第7貝層からやや離れたところの民家の裏には第5貝層があるといいます。
こちらも貝の散布は見られませんでした。ましてや個人宅の敷地内なので遠くから見るだけにしました。
やはり傾斜地です。
この付近にある来迎寺というお寺の参道脇斜面に第1貝層がありました。ここで初めて、貝塚らしく貝の散布が見られたのでした。
ここも傾斜地の途中に貝層があります。斜面一杯に貝が散布しているのが見られて、中には土器片もありました。
主に二枚貝の貝殻がありましたが、ハマグリやサザエなど今なら高級食材となった貝も見られ、結構贅沢なモノ食べていたんだねぇ、ってちょっとうらやましくなりました。
まあ、いつ見ても貝塚っていうのは貝殻がいっぱい散らばっているだけで見所が少ないんですけどね(貝殻が散らばっていればまだマシだと思う)。
この後はもっとなんか派手なものが見たいなぁ、と思いつつ良文貝塚を立ち去ったのでした。
というわけで、次回はこの周辺の国指定天然記念物の大木を2株、紹介します。
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阿玉台貝塚(昭和43年5月 史跡指定 千葉県香取市阿玉台)
阿玉台貝塚は平成の大合併で佐原市と合併して「香取市」となった旧小見川町内に所在します。阿玉台貝塚が形成された時期は直近の氷河期とされる地球規模で寒冷だった第4氷河期が終了し、温暖な気候になりつつあった時期にあたります。いわゆる“縄文海進”が進んだ縄文時代中期の前半にあたる貝塚とされ、ここから出土した土器は本文中にも記したように「阿玉台式土器」と命名されて縄文中期の編年の標式とされています。そのような研究史上の重要性から、国指定史跡となりました。
良文貝塚(昭和5年2月 史跡指定 千葉県香取市貝塚)
良文貝塚は阿玉台貝塚より東に約1.2kmほどのところにあり、やはり旧小見川町内に所在します。主に鹹水性(汽水性)の貝塚で、指定当時は貝層の幅が約1.5mから最大では6mに達する大規模な貝塚として指定されました。出土した土器は主に称名寺期から堀之内期を経て加曾利b式に至るまでのもので、縄文海進も終わりに近い縄文時代後期の貝塚として比定されています。