埼玉県嵐山町・杉山城跡を訪ねる ― 誰がどうして築いたかわからない、鉄壁の城 | 名宝を訪ねる ~日本の宝 『文化財』~

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今回は、埼玉県にある杉山城を訪ねました。

 

十数年前に一度、訪ねたことがあったのですが、最近になってこんな本が出版されていることを知りまして…

 

 

 
 

 

 

著者の西股さんは城郭研究家としてテレビや雑誌でよく紹介されているので、私も存じています。

 

そんな方が、あまり一般には有名ではない関東の一城郭について一冊の本をまとめていることに驚いて、書店で見かけてそのまま購入してしまいました。

 

単なる地方の山城と思っていたら、杉山城には複雑な謎が秘められていたことをこの本で知りました。

 

で、この本に触発されて、もう一度お城を訪ねてみました。改めて訪れてみるととても堅強な城だったことを認識させられたのです。

 

それでは、早速訪れてみましょう。

 

 

 

まずはこのお城の縄張りを見ていただきましょう。下の写真は現地の解説板から拝借した杉山城の縄張り図です。

 

杉山城の縄張り(現地解説板から)

 

この図から、杉山城の堅牢さが分かったという方は相当、城郭に詳しい方でしょうね。

 

西股さんも彼の本で関西から来た知人に杉山城跡を案内した際、その知人が

 

「…あまりにもすごくて、言葉にならないんです。こんな城、関西では見たことない…」

 

と言ったことを紹介しています。

 

 

杉山城は中世の街道、鎌倉街道沿いに位置しています。

 

中世の関東では、この街道に沿って覇権の戦がたびたび起きていますね。

 

だから杉山城も、そんな戦乱の時代に築かれたのだろうことはおおよそ理解されていました。

 

鎌倉街道から見た杉山城

 

 

鎌倉街道から見ると、その東側に低い丘陵があり、今ではとても城があったようには見えません。しかしその頂上にとても堅牢だったとされる城跡があるのです。

 

交通の要所に築かれたことから、とても重要な拠点として利用されていたことは想像できます。しかし杉山城は長いこと、その存在を注目されることはなかったのです。

 

なんせ文献史料にはその名前が、全くと言っていいほど登場しないのです。


西股さんの本では城へのアプローチは麓の積善寺から登るように描かれています。確かに昔訪ねた時はお寺から登りました。しかし今は麓にある町立玉ノ岡中学校の敷地から登るようになっていました。積善寺からは登ることができません。

 

玉ノ岡中学の校門側から回れば城跡訪問専用の駐車場もあります。

 

 

玉ノ岡中学敷地内から見た杉山城

 

 

当時の大手は積善寺から登るルートだったようです。大手口からは鎌倉街道が見えました。

 

大手口から鎌倉街道方向を見る

 

 

大手口

 

 

大手口には二重の土塁があるとされていますが、現状は下の写真のような感じです。

 

大手口の二重土塁

 

 

さて、ここからが杉山城の本領です。いきなり巨大な切岸が目に飛び込んできます。

 

これは南三の郭の南側に当たるところです。

 

大手口から見えた切岸

 

 

ちょっとここで攻め手側の視点に立って、城を周ってみましょう。

 

本丸は守備側の抵抗が激しいので、まずは大手口から左手へ回り込みましょう。すると南三の郭の南縁に沿って空堀と土塁があります。土塁上は当時の通路だったと見られます。空堀に降りてしまうと険しい切岸に阻まれ、南三の郭には登れませんので。

 

土塁の上を進んでいきます。途中で大きく直角に曲がっています。南三の郭の南西端です。ここでお分かりいただけると思いますが、郭の方が高くなっていて、通路を側方から見下ろせる構造になっているのです。こういう構造を横矢掛といい、守備側が反撃しやすくなっています。

 

南三の郭南西端の折れ

 

 

ここでの反撃を潜り抜けて先へ進むと、土塁が屈曲している箇所がありました。このような構造を折れといい、ここも横矢掛になっていて、前方と側面から激しく反撃されてしまいます。

 

南三の郭西側の折れ

 

 

もう少し進めば南三の郭の西側入口(虎口)が現れます。しかしこの虎口も土塁から90°に曲がって進むようになっていて、横矢掛になっています。しかも土橋の手前には馬出があり、やや広くなっています。南三の郭の南側を進攻してきた攻め手は馬出に集中します。しかしその先、狭くなった土橋を渡ることになるので攻め手は混乱することでしょう。そこを守備側は横矢で反撃するわけです。

 

南三の郭 馬出と、90°曲がる虎口

 

 死線をくぐり抜けても、こう繰り返し効率よく反撃されては攻めるにも攻められませんね。



いったん大手口へ戻り、外郭から本丸へ向かってみましょう。現在は空堀へ降りてから南三の郭手前の馬出に出て、南三の郭へ登るようになっています。この馬出から複雑に曲がって築かれた土塁と空堀が見られます。屏風折というそうです。ここにも横矢掛が見られます。

 

南三の郭東側の屏風折

 

 

屏風折を城内側から見ると下の写真のようになっています。

 

屏風折を城内側から見る

 

 

外郭から馬出へは今でこそ空堀へ一旦おりますが、当時は木橋が掛けてあったと考えられます。非常時には木橋を外せるようになっていたんでしょうね。

 

外郭から南三の郭へ登るところは土橋ですが、この土橋も狭いうえに登りです。とにかく攻めづらい。

 

南三の郭から南二の郭への虎口

 

 

南三の郭から見下ろすと馬出の構造がわかります。攻城軍はここを通って土橋を登ることになります。なのでここも横矢掛になっていて、南三の郭から攻撃しやすいようになっていることがわかります。

 

南三の郭から馬出を見下ろす

 

 

南三の郭から本郭を望むと、丘陵の尾根に沿って郭が築かれ、本郭は最高所に位置しているのがよくわかります。

 

南三の郭から本郭を望む

 

 

今は空堀を上り下りしてここから直接本郭に入ることができます。本郭は周囲を土塁で囲み、今は特に見るべきものはありません。県指定史跡当時の石碑がありました。


本郭

 

本郭へは本来、井戸郭から木橋が掛かっていて非常時には攻め手が入ってきにくいようになっていたと考えられているそうです。今の本郭への登城口とは違っていたのです。ここにも横矢掛があります。

 

井戸郭から本郭への虎口(写真左側の灌木のところに木橋があったとされる)

 

井戸郭から見た本郭(写真中央の空堀に木橋が掛かり、奥の灌木のところが本郭の横矢掛)

 

 

井戸郭にはその名の通り、井戸がありました。今は大きな石が置かれています。

 

なんとこの石、廃城の際に井戸を利用できなくするために置かれたと考えられているそうです。

 

井戸郭と井戸

 

ところでこのお城は西側が急斜面になっていて、それだけで西側からは攻めにくい構造にもなっています。しかしもし西側から攻めるとすると、この井戸郭へ向かってくるようになっています。

 

しかしそれも一筋縄ではいかないのです。

 

西側からだと帯郭があり、それを横切るように竪堀が数条、築かれています。ここから城内に入ることになります。

 

西側 帯郭を横切る竪堀

 

 

竪堀から城内に入ると本郭の高い切岸に突き当たります。目の前に聳える切岸はそれだけで攻め辛さを感じますので、きっと攻撃側の兵もここで気が削がれたことでしょう。それでも気を奮い起こし、空堀内を進んでみましょう。

 

すると本郭と井戸郭の間の空堀を進みます。これが下の写真のように切岸は高いうえに何度も曲がるので攻める気が失せます。そのうえ、この堀はその先がいずれも東側に抜けるか、土橋などで行き止まりとなっています。

 

ここにも徹底した防衛上の構造が見られるのです。

 

井戸郭と本郭の間の空堀

 

ここで、本郭の北側へ行く前に先に東側を見てみましょう。訪問時には城内から進んでいきましたが、ここは西股さんの本に従って、東から攻めてくると想定して紹介します。こちらには二つの郭が低い尾根に沿って築かれています。

 

東一の郭(東二の郭から見たところ)

 

 

東二の郭(東一の郭から見たところ)

 

 

すると東二の郭の先で本郭の高い切岸に突き当たるので、ここで左へ曲がります。すると帯郭が大手口方向へ続いています。

 

大手口へ続く東側の帯郭(北から)

 

東側の帯郭(南から)

 

 

この帯郭は大手口のところで馬出に行き当たります。

 

東側の馬出

 

お分かりいただけましたか?なんとこの帯郭、本郭側からずっと狙われているのです。これも横矢掛になっているのです。

 

しかも馬出で突き当りになっているので、ここで攻城側の兵は一網打尽です。

 

最後に北側を見てみましょう。ここも訪問時には本郭から北へ進んだのですが、西股さんに従って北から攻めてみましょう。こちらは本郭から続く尾根上に2つの郭があります。こちらが搦手だったと考えられています。

 

まずは搦手口から。

 

北側 搦手口

 

 

北の郭はいずれも堀に囲まれた平面長方形の郭です。

 

北一の郭 空堀

 

尾根に沿って築かれているので、下の写真のように虎口も急な登りになっています。

 

北二の郭 虎口

 

北二の郭 空堀と土塁

 

 

北二の郭から本郭へ登る手前、またもや左側に高い切岸があります。この先が虎口になっているのです。これも横矢掛です。

 

北二の郭 本郭虎口の横矢掛

 

下の写真は上の写真の先、土橋になったところから横矢掛を撮影しました。右の空堀や土塁が90°曲がって通路が手前に向かってきている様子です。ここで土橋を越えて本丸に入るので、攻め手側からすれば守備側からの雨霰のような攻撃をもろに受けること請け合いです。

 

本郭北側の虎口

 

 

…と、このように杉山城は横矢掛を用いて徹底した守備を誇っているのです。だからなのか、攻められた記録や落城した記録が全くと言っていいほど残っていない。そのため誰が築いたのか、いつ築かれたのか長いこと全く分かっておらず、謎の城といわれていました。

 

で、ここで城郭史や城郭考古学の研究者を巻き込んだ「杉山城問題」と呼ばれた議論が巻き起こったのです。

 

……関東では中世にこんな手の込んだ守備を誇る城を築くきっかけになるような大きな戦乱の時期が2回あった。一つは山内上杉家と扇谷上杉家の家督争いに端を発した戦乱期(15世紀後半)、もう一つが後北条氏による関東平定の時期(16世紀後半)である。杉山城は折れを多用し、横堀を基本とした縄張りから後北条氏の戦乱の時期に築かれたものと長らく考えられてきたが、自治体による保存・管理計画策定のための発掘調査が2002年に行われると、出土品は15世紀後半~16世紀初頭に収まるとされた。

 

城郭史研究の観点では縄張りの特徴から後北条氏の戦乱期に築城されたと見られたものが、発掘調査による考古学的な観点では上杉家の戦乱期まで遡るとみられる、この杉山城の築城時期を巡る議論を「杉山城問題」という……

 

というところでしょうか。学界では結構大きな問題だったそうで、そのために西股さんも本にまとめた、とのことです。しかもこの問題は今も解決を見ていないとのこと。

 

 

最後に西股さんは本の中で、自身は上杉家の戦乱期に築いたとする説には納得いっていないと仰ってます。私としては研究者ではないので、結論が出ていないことはどうでもいい、と言ってしまえば語弊がありますが、こんな立派なお城が地元にあるのに、あまり知られていないことの方が残念でなりません。

 

写真では紹介しきれないので、皆さんにはぜひ現地へ足を運んでほしい、といったところです。

 

 

 

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杉山城跡(平成29年10月 史跡「比企城館跡群」として名称変更、追加指定 埼玉県比企郡嵐山町杉山)

 

杉山城跡は鎌倉街道沿いに築かれた中世の城跡です。「比企城館跡群」として付近の他の3城(小倉城、菅谷館、松山城)とともに国指定史跡に指定されました。城跡の保存状態がよく、比企郡の城跡群の中では規模も大きいことから国指定史跡となりました。

 

比企郡には国指定になった4城の他に、鎌倉街道に沿って城跡が64ヶ所も所在し、一大城館群の様相を呈しています。その中でも規模が大きく保存状態の良い4城が国指定史跡となりました。

 

杉山城は本文でも述べましたが、築城者や築城時期が不明な謎の城とされています。ただ、比企郡の城館にはそのような城が多数含まれていて、国指定史跡の4城も松山城を除いて築城者やその時期はいずれもハッキリとしていません。