東京都台東区・高橋至時墓および伊能忠敬墓を訪ねる ― 師・高橋至時と共に永眠する伊能忠敬 | 名宝を訪ねる ~日本の宝 『文化財』~

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今まで”測量の父”伊能忠敬の聖地巡礼のごとく、伊能忠敬関係の文化財を訪ね歩いてきました。

 

前回までに伊能忠敬旧宅、伊能忠敬関係資料、伊能忠敬測量図を紹介しました。

 

 

今回は最終回、忠敬さんの永眠する「伊能忠敬墓」を訪ねました。

 

伊能忠敬は「師の隣で眠りたい」と遺言をしたため、その墓地の隣には師匠である高橋至時の墓もあります。いずれも国指定史跡に指定されています。なので、ここで一緒に紹介します。

 

 

伊能忠敬について、詳細がわかりやすい本はこちら。参考にさせていただいてます。

 

 

 

JR上野駅といえば東京国立博物館や上野動物園がある上野恩賜公園の最寄り駅なので、休日ともなれば親子連れなどでいつも賑わっています。しかしそれは「公園口」の話。

 

私もいつもなら国立博物館を目当てにこの駅へ降りるのですが、今回は「公園口」とは反対側に当たる「入谷口」改札へ。

 

公園口の賑わいはどこへやら。比較的閑散とした、小さな改札口です。その入谷口から北東へ、源空寺というお寺を目指します。

 

歩くこと約20分。首都高上野(1号)線をくぐり、狭い通りを入っていくと正面には東京スカイツリーが見えました。

 

スカイツリーはこのぐらいの距離から見たことは何度もあるんですが、行ったことがありません。東京タワーは結構行ったことあるのですが。文化財に指定されているものがないから興味ないというか…(東京タワーは増上寺の近くにありますからねぇ)。

 

源空寺前の通り。東京スカイツリーが見える。

 

 

通りの左手に目指す源空寺はありました。ここに伊能忠敬と高橋至時のお墓があります。

 

源空寺

 

ただ、お二方の墓所は通りをはさんでお寺の境内と反対側、源空寺墓地内にあります。

 

 

源空寺の墓地

 

 

伊能忠敬測量図についてはこの本がとても詳しいです。ご参考に。

 

 

 

墓地に入ります。まず一礼し、とにかく他のお墓に失礼を詫びながら墓地へ入ります。

 

お二人の墓所は墓地のほぼ中央付近にあり、すぐにわかりました。入口に近かったのが伊能忠敬のお墓。

 

伊能忠敬の墓

 

ここでもあいさつ申し上げ、これから撮影など失礼なことをすることに対してお許しくださいとお参りします。

 

そしてぐるりと墓石を観察。正面には大きく「東河伊能先生之墓」とあります。

 

そして残りの三面には…

 

 

伊能忠敬墓 墓碑右側面

 

 

びっしりと漢文が!

 

側面だけでなく裏面にも!

 

伊能忠敬墓 墓碑裏面

 

何が書かれているかというと、伊能忠敬の出生から事績、享年までを漢文で刻んであるのです。この撰文をしたのが当代一流の儒学者だった佐藤一斎。この人のお墓も国指定史跡で、港区六本木のど真ん中に今も残されているんですが、今は非公開になってしまってお参りできないんです。30年くらい前にはできたのですが、残念です。

 

今回、私は自分で撮影した写真から碑文を書き起こしてみました。内容としては出生から天明、天保の飢饉の際には地元佐原で救荒策を施したこと、幕命で計10回の日本沿海測量に向かった事績などが書かれているのですが、びっしりの漢文とはいえ、限られた文章の中に見事にそれらが納まっているのには、さすが当代一流の儒学者が撰文しただけあります。

 

(碑文の内容を知りたい方は、どうぞリクエストください。ブログ内で発表したいと思います。)

 

 

そしてその隣には、伊能忠敬の師匠にあたる高橋至時のお墓もあります。

 

高橋至時の墓

 

 

こちらも、正面には「贈従五位 東岡高橋君之墓」とあり、残りの三面には漢文で実績などが刻まれていました。

 

伊能忠敬は遺言に「師匠である東岡先生(高橋至時)の隣に眠りたい」といったとかで、お墓が隣にあります。

 

こちらは漢文を書き起こす作業が間に合わず、何が書かれているかはわかりません。いずれ書き起こしてみます。

 

(こちらもリクエストあれば、作業を早めに進めたいです。)

 

 

高橋至時墓 墓碑左側面

 

 

高橋至時墓 墓碑裏面

 

 

そして至時の墓の並びには、息子で忠敬の事業を継いだ高橋景保の墓もあります。彼は忠敬の事業を継いで日本沿海與地図を完成させ、幕府に提出するまでを成し遂げましたが、その後シーボルト事件に連座したとして処刑されたためか、墓石は打ち割られていたようです。現在は修復されてますが、ヒビが走って痛々しい限りでした。

 

高橋景保の墓

 

景保の顕彰碑も墓域内にあります。罪人として処刑されてしまいましたが、その事績を見れば罪人として埋もれさせてしまうのは大変に惜しい、ということだったのでしょうか。顕彰碑を建てて墓石を修復した、ということなのでしょう。

 

国指定史跡ではありませんが、日本の測量の礎を築いた一人として父・至時や同僚に当たる忠敬と一緒にここに紹介します。

 

高橋景保 顕彰碑

 

 

なお、この墓地には他に、江戸後期の南画家として有名な谷文晁、江戸前期の侠客として有名な幡随院長兵衛夫妻の墓などもあります。

 

谷文晁の墓

 

 

幡随院長兵衛夫妻の墓

 

 

ところで、高橋至時墓と伊能忠敬墓は同じ年月日に国指定史跡となっています。ここにも師弟の絆を感じませんか?

 

 

 

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高橋至時墓(昭和18年5月 国指定史跡 東京都台東区東上野6丁目、源空寺境内)

伊能忠敬墓(昭和18年5月 国指定史跡 東京都台東区東上野6丁目、源空寺境内)

 

伊能忠敬は幕命により全国を測量し、その成果は「大日本沿海輿地全図」として知られています。高橋至時はその師匠にあたります。詳しいことは過去記事をご覧ください。文化15(1818)年に死去、享年74歳。

 

高橋至時は大阪定番同心の家に生まれ、15歳でその職を継いでいます。ただ算術や暦術に傾倒し、大坂の宅間流和算家・松岡能一(よしかず)に師事します。その後、当時の天文学の第一人者、麻田剛立に入門し、同門の間重富(はざましげとみ)と並んで門下生の双璧とされました。

 

寛政改暦の時は至時と重富はそれぞれ天文方・暦局出自に任ぜられ、ついに天保13(1842)年、当時としては太陰暦の完璧な暦を作り上げています。

 

そのあと至時は漢籍の知識だけに満足せず、蘭学の知識を得んとして『ラランデ暦書』の訳出を試みました。しかし、多くの蘭学者の助けを経ても天文学の知識に乏しかったためその内容を理解できず、訳出には推測も含めて行ったといわれます。

 

至時はこの研究に寝食を忘れて没頭したため、もともと体調が悪かったものを悪化させてしまい、ついに文化元(1804)年に死去しました。享年41歳。伊能忠敬は20歳も年下の彼を父のように敬っていたといいます。彼の成果は死後、息子の高橋景保によって『新巧暦書』として幕府に献納されました。