
今回もご覧いただき、ありがとうございます。
前回は愛知県半田市の「半田の酢醸造用具」を紹介しました。
いろいろ調べているうちに、今度は粕酢とはどんな味なのかが気になってしまい、ブログ更新後には例の「山吹」酢を探して回りました。
自宅の近所では売ってるところはなく、先週は仕事で再び半田市を訪ねたので合間にスーパーやコンビニを覗いてみたのですがやはり見当たリませんでした。
結局、お取り寄せしてみることにしました。
また機会があったら味の感想を書き込みます。
さて、今回は群馬県の古墳を訪ねました。
群馬は東日本でも有数の古墳王国と言って過言でなく、あっちに古墳、こっちにも古墳、といった具合に随所に古墳があるのです。
以前にも群馬の古墳はいくつか訪ねましたね。
今回は太田市の天神山古墳、女体山古墳と塚廻り古墳群を訪ねました。まずは天神山古墳から。
太田天神山古墳といったら東日本最大といわれる前方後円墳ですから、ご存知な方も多いでしょう。マニアには憧れの聖地であります。私も実はこれが初めての訪問ではありません。早速、行ってみましょう。
天神山古墳(東から)
東武伊勢崎線の太田市駅から県道を南東方向へひたすら進むと大きな森が見えてきます。それが天神山古墳です。
大きすぎて全く小山にしか見えません。しかしクビレはあるし、前方部の角もあるし、段築になっているのもわかりますので、古墳だとわかります。
できれば上空から見たいですよね。ドローンとかあればいいのですが…。住宅地だし、それも難しいかな?
後円部
古墳の周囲にある帯状に残る水田跡地は周濠の跡です。
県道脇に「史跡 天神山古墳」の石標が建っていました。その脇に墳丘への登山(墳?)道があります。
墳丘に登る前に、まずは古墳を一周してみました。後円部の登り口と県道をはさんだ反対側には半月状の空き地があります。
これも周濠の跡です。後円部に沿ったカーブの部分が残されてるんです。
北側の周濠跡
その近くの住宅街中には天神山古墳の陪塚も。
ここは私有地のようなので遠くから見るだけです。
陪塚
ここから時計と反対周りに古墳を回ってみました。
まずは北西方向から。後円部から前方部へ周濠越しに望んでます。
北西から
墳丘の段築成や前方部と後円部の括れなどが分かります。
やっぱり小山じゃなく古墳なんだな。
さらに回り込んで南西から。前方部から後円部を望んでます。
南西から
ちょっと進んで南側。前方部の最前面側を見てます。
南側
そして、全景を見るために南東方向へ歩きました。
南東から見た全景
…大きすぎる。標準レンズだとこのくらい離れなければ全景が収まりませんでした。
ここから県道へ戻り、墳丘に登ってみました。
高さはないので登るのはキツくはないです。
後円部の斜面には葺石らしき河原石が。
後円部で見られた葺石
後円部頂に着きました。
後円部頂
思ったより凸凹が大きいです。過去には盗掘に遭ってるそうなので、そのせいでしょうか。
ここから前方部の方を眺めました。
括れ部に神社らしい建物が見えます。名前の由来になった天神様かな?
後円部から前方部を見る
昔は上の写真の斜面の左下、神社の建物の手前あたりに長持型石棺の一部が露出してたのを見ることができました。今はその場所もハッキリとしません。
青っぽい凝灰岩質の石で、石棺の一部であることがわかるくらい露出してたのですが…
10年くらい前に来たときには既にその場所がわからなくなってたので、保存のため土を被せたのでしょう。
前方部に行ってみましょう。
前方部の段築成の様子
3段築成で築かれているそうで、その様子がよく分かったのがこの位置でした。
さらに前方部の頂上へ。
前方部から後円部方向を見る
ここからだと墳形が、なんとか前方後円墳らしく見えました。
やっと巨大な前方後円墳に来た実感が湧きました。
ここから神社に下って麓に戻りました。
いかがでしたか?
そりゃあ仁徳くんに比べたら小さいですけどね。
というか、あちらは大き過ぎだし墳丘は立入禁止ですから。堪能するのは難しいじゃないですか。
それより遥かに親しみやすく、堪能しやすい巨大さですから。
いきなりメインディッシュな古墳を紹介してしまったので次に向かった女体山古墳をどう紹介するか、考えてしまいます。
それでも次回は隣の女体山古墳へ向かいます!
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天神山古墳(昭和16年1月・国指定史跡 群馬県太田市内ケ島町)
太田天神山古墳として有名ですが、指定名称は「天神山古墳」です。その巨大さから古くから議論の的で、上毛野君との関連で議論されることが多い古墳です、
その巨大さは墳丘の主軸長方向で約210mにおよび、周濠も含めればさらに大きなサイズになります。築造年代は5世紀前半と見られ、埋葬主体は発見されていませんが、過去には後円部南側斜面に長持型石棺の一部が観察できました。
群馬県では同時期の巨大前方後円墳が数か所見られ、上毛野政権ともいえる首長連合を形成していたといわれています。その中でも特に規模の大きい天神山古墳は主体部の位置づけと合わせて、そのような首長連合の盟主的な立場の人物が葬られたとみられています。
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