埴輪(2) | 志布志に住む sibusi070のブログ

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一昨年、愛知県東海市から生まれ故郷に帰ってきました。

しつこく埴輪について求めるのです。

うーん、埴輪は我が国の設計ではないことに近づく。


じゃ誰が埴輪をデザインしたのか?


あるいは、誰が埴輪を必要としたのか?


当時の倭の状況には埴輪は必要だったのかな?


古墳をつくりだしたから、埴輪も必要になつてきた?

それはわかるけど、そんな文化があつたからなのか?


大王の埋葬に埴輪も一緒に入れる文化は倭人にはなかったはず。さらば、誰かが持ち込んだ。


それは誰よ?


古代の倭には周囲の外国から、誰かが流れ着いていたのか?


当時の周辺の国で「陽の登る国」を求めて、倭を訪れる旅人か多かったと技術されている。

それは、中国からの人たちだけてはないと。

モンゴルと倭との交流もあったと。

陽の登る国を目指す考えはヨーロッパ人に強くあったらしい。ということは、モンゴルにつながっているユーラシアであろうと記述がある。

ユーラシアとは今のウクライナとかロシアなんだな。


確かに、ウクライナ人はあごひげを生やしたいるな。

埴輪に似てる。


ということは、倭にユーラシア大陸経由で、たくさんの知識人が倭に入り込み、倭の文化に多大な影響を与えていたと考えるのは今や、想像ではないようだ。


倭には中国から文明が伝わり、縄文時代に影響を与えて、弥生時代には中国からの渡来人に乗っ取られたというストーリーが多すぎる。

これはほんとなんだろうか?


オラには古墳や埴輪をみると中国からだけの文化とは思えない。なぜなら、古墳や埴輪の文化は中国には過去に見られないのだ。


ということは、倭には中国いがいの国から侵入者があったと見るべきだろう。


その人たちが持ってきた文化の方がはるかに上だったことなんだな。


もう少し調べよう。