西明寺のあとは天龍寺の予定でしたが、4時すぎとなっていましたので、さすがに天龍寺は無理としても、ちょっとどこか寄りたいなと思って念仏寺によってみました。
最終拝観時間の4時30分ぎりぎりでしたが入れました。
念仏寺は初めてで写真しか知らなかったので、もっとおどろおどろしいところかと期待していましたが。
そこまででは無かったですね。
帰りは3連休の最終日でしたので、名古屋まで断続的に渋滞はありましたが、一宮までは結構流れていました。
一宮は夕方はいつも渋滞です
京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋






出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
化野念仏寺

賽の河原
所在地 京都府京都市右京区嵯峨鳥居本化野町17
位置 北緯35度1分36.50秒
東経135度39分52.28秒
山号 華西山(かさいざん)
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 伝・弘仁2年(811年)
開基 伝・空海
正式名 華西山 東漸院(とうぜんいん) 化野念仏寺
化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)は、京都市右京区の嵯峨野にある浄土宗の寺。山号は華西山。化野は、鳥辺野(とりべの)と並ぶ平安京以来の風葬の地である。
起源と歴史 [編集]
弘仁2年(811年)、空海が五智山如来寺を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのに始まるとされる。法然が念仏道場を開き、念仏寺となる。本尊は阿弥陀如来像(寺伝に湛慶作というが実際の作者は不明)、本堂は江戸時代の正徳2年(1712年)に寂道により再建されたもの。境内の約8000体という夥しい数の石仏・石塔は、明治36年(1903年)頃に、化野に散在していた多くの無縁仏を掘り出して集めたものである。境内には水子地蔵尊もあり、地蔵様の縁日には水子供養が行われている。

西明寺はもう完全に私1人でした。
もともと神護寺に足が悪くて御参りできない人にために、西明寺が建てられたそうですが、こじんまりとしたお寺でした。



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋




提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
西明寺(さいみょうじ)は、京都市右京区にある真言宗大覚寺派の寺院。山号は槙尾山、本尊は釈迦如来。
所在地 京都府京都市右京区梅ケ畑槇尾町2
位置 北緯35度3分25.97秒
東経135度40分29.89秒
山号 槙尾山
宗派 真言宗大覚寺派
本尊 釈迦如来(重要文化財)
創建年 伝・天長年間(824年~834年)
開基 伝・智泉
文化財 木造釈迦如来立像、木造千手観音立像(重要文化財)
高雄山・神護寺、栂尾山・高山寺とともに三尾の名刹として知られる。

沿革寺伝によれば、天長年間(824年~834年)に空海(弘法大師)の高弟 智泉大徳が神護寺の別院として創建したと伝える。その後荒廃したが、建治年間(1175年~1178年)に和泉国槙尾山寺の我宝自性上人が中興し、本堂、経蔵、宝塔、鎮守等が建てられた。

正応3年(1290年)神護寺より独立した。さらに兵火により堂塔は焼亡したが、慶長7年(1602年)に明忍律師により再興された。現在の本堂は、元禄13年(1700年)桂昌院の寄進により再建されたもの。




京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋

神護寺では、曇りで湿度は高かったのですが、気温はそれほど高くなく良かったのですが、さすがにあの階段を登るのは全身汗だくになりました。
神護寺も午後ちょっと遅めだったので、観光客もほとんどおらず閑散としてました。
境内に入ったときに、ぱらぱらと雨が降りはじめ、金堂で国宝の薬師如来像を拝観している時に土砂降りになり、おかげで薬師如来さまをようく拝観できました。
しばらくしたら、ぱっと晴れたので、かわら投げのところばで行きましたが、私1人だけでしたので暇そうにしていた売店のおばちゃんと冷やしあめを飲みながら雑談させてもらいました。
それでも、午前中と私が来るちょっと前までは、忙しくててんてこ舞い状態といってましたが、どうなのかな。
それでも、神護寺も1人でゆっくり満喫できました。

京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋






提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
神護寺(じんごじ)は、京都市右京区高雄にある高野山真言宗遺跡(ゆいせき)本山の寺院。仏塔古寺十八尊第七番。本項で詳説する。
神護寺(じんごじ)とは、神仏習合が許されていた江戸時代以前、神社に付属しこれを管理した寺のこと。神宮寺または別当寺と同義
神護寺
所在地 京都府京都市右京区梅ヶ畑高雄町5
山号 高雄山
宗派 高野山真言宗
寺格 遺跡(ゆいせき)本山
本尊 薬師如来(国宝)
創建年 天長元年(824年)
開基 和気清麻呂
正式名 高雄山 神護国祚真言寺
別称 高雄神護寺
札所等 仏塔古寺十八尊第七番
西国薬師四十九霊場第四十四番
神仏霊場 巡拝の道 第90番
文化財 木造薬師如来立像、絹本着色釈迦如来像、梵鐘ほか(国宝)
大師堂、絹本著色十二天像六曲屏風、絹本著色真言八祖像8幅ほか(重要文化財)
神護寺(じんごじ)は、京都市右京区高雄にある高野山真言宗遺跡(ゆいせき)本山の寺院で、山号を高雄山と号する。本尊は薬師如来、開基は和気清麻呂である。

概要
京都市街の北西、愛宕山(924メートル)山系の高雄山の中腹に位置する山岳寺院で、紅葉の名所として知られる。清滝川に架かる高雄橋から長い参道を歩いた先の山中に金堂、多宝塔、大師堂などの堂宇が建つ。神護寺は空海が東寺や高野山の経営に当たる前に一時住した寺であり、最澄もここで法華経の講義をしたことがあるなど、日本仏教史上重要な寺院である。

寺号は詳しくは「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」と言う。しかし、寺の根本史料である「神護寺略記」や国宝の「文覚上人四十五箇条起請文」などにももっぱら「神護寺」とあり、寺の入口の楼門に架かる板札にも「神護寺」とあることなどから、本項でも「神護寺」の表記を用いる。
ルーブル美術館展の後に当初の予定どおり高山寺に行きました。
4月から京都を周り始めて、京都の17の世界遺産のうちこれで13を周ったので、後は4つ(二条城、天龍寺、西方寺、延暦寺)だけとなりました。4つとも何回か行ったことはありますが、30年振りとかなのでやはり楽しみです。ただ苔寺は事前予約が必要なのでいつにしようかな。
高山寺は雨上がりで階段が滑ったりしましたが、暑くないし、観光客もまばらで、あの雰囲気を堪能できました。

京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋




提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高山寺
所在地 京都府京都市右京区梅ケ畑栂尾町8
山号 栂尾山
宗派 真言宗系単立
本尊 釈迦如来
創建年 1.伝・宝亀5年(774年)
2.建永元年(1206年)
開基 1.伝・光仁天皇(勅願)2.明恵
文化財 石水院、鳥獣人物戯画ほか(国宝)
乾漆薬師如来坐像、宝篋印塔、絹本著色華厳海会諸聖衆曼荼羅図ほか(重要文化財)
世界遺産
高山寺(こうざんじ)は、京都市右京区梅ヶ畑栂尾(とがのお)町にある寺院。栂尾は京都市街北西の山中に位置する。高山寺は山号を栂尾山と称し、宗派は真言宗系の単立である。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵である。「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。境内が国の史跡に指定されており、また古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。

歴史
高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中に位置し、古代より山岳修行の適地として、小寺院が営まれていたようである。今の高山寺の地には、奈良時代から「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される寺院があり、宝亀5年(774年)、光仁天皇の勅願で建立されたとの伝えもあるが、当時の実態は明らかでない。平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)と称されていた。これは、神護寺本寺から離れた、隠棲修行の場所であったらしい

7月20日の7時15分に春日井インターから京都に向かいました。
名古屋はいい天気でしたが、京都に向かうにつれだんだん雲がどんよりとしてきて、ついに大津SAの手前で激しい雨になりました。それでもいつものように1時間15分で大津SAに到着しました。
高山寺・神護寺・西明寺と天龍寺とその周辺を周りたかったのですが、雨なのでどうしようか、迷いながら京都市内に向かいました。
市内もぽつぽつと降りはじめましたが、止みそうでもあり微妙な感じでしたので、とりあえず中心部で様子を見ようと思い、ついルーブル美術館展に行ってみました。
美術の素養なんてぜんぜんない、単なるミーハーですが、本物をあんなに間じかに観れるのはやはり素晴らしく楽しいことでした。
凄い人なので、見るのも大変でしたが、私は「大工ヨセフ」が一番気に入りました。



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋




ジョルジュ・ド・ラ・トゥール (1593年−1652年)
《大工ヨセフ》
1642年頃  油彩・カンヴァス  137㎝ × 102㎝
光源は幼子キリストが持つ蝋燭ただ一つ。輝く炎は、若々しいキリストの顔を清冽に照らし出しながら、幼子の左手を透かして見るものに届けられる。一方、大工仕事に精を出す養父ヨセフの手元をほのかに照らしつつ、額には年齢と労苦を刻み込んだ皺を浮かび上がらせる。ほぞ穴が穿たれた角材は十字架を連想させ、幼子の将来がすでに暗示されており、キリストに向けられた、慈愛に満ちながら、どこか不安げなヨセフの視線も、運命の予兆に緊迫感を加えている。画家が活動した17世紀前半のロレーヌ地方では、聖ヨセフへの信仰は、殊に活発となっていたが、そのための図像への需要が、この類希な才能と出会った時、見るものの視線を括り付けて止まない名作をもたらすことになったのである。
現在では17世紀フランスを代表する画家の一人に数えられるジョルジュ・ド・ラ・トゥールが見出され、再評価されたのは20世紀になってからのことである。本作品も、1938年に発見され、イギリス人パーシー・ムーア・ターナーの所蔵となっていた。彼によってルーヴル美術館に寄贈されたのは1948年、彼の友人で作品発見の翌年に亡くなった、ルーヴル美術館絵画部門の学芸員ポール・ジャモに対する追悼記念として贈られたのである。

作品解説:京都市美術館 学芸員 中谷 至宏

醍醐寺は今回初めてきました。
3時半ごろ着いたので、駐車場も空いていました。
あんまり時間も無いので三宝院はパスして、金堂、五重塔に向かいました。金堂の中のご本尊も間じかに観られていいですね。
それに五重塔が美しいです。
奥の弁天堂まで順番に観ながら行きましたが、もうほとんど観光客は奥の方にはおらず、私1人だけでゆっくり楽しむことができました。
でも、奥の方に点在しているお堂に中にも仏像がありますが、誰もいないのでなんか無用心な気がしましたが、大丈夫なのかな。
でもゆっくり世界遺産を堪能できました。


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋






出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
醍醐寺
醍醐寺(だいごじ)は、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派総本山の寺院。山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝(しょうぼう)である。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。伏見区東方に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内をもつ寺院である。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られる。
歴史
醍醐寺の創建は貞観16年(874年)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音(じゅんていかんのん)並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。
醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯を中心に、多くの修験者の霊場として発展した後(この場所を「上醍醐」と呼称する)、醍醐天皇は醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展することになる。
その後応仁の乱など相次ぐ戦争で下醍醐は荒廃し、五重塔しか残らないありさまであった。しかし豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに紀州などからの寺院建築の移築や三宝院の建設などにより今日見るような姿となっている。
伽藍
上醍醐と下醍醐は険しい山道で隔てられ、徒歩で1時間は要する。
下醍醐
本尊薬師如来を安置する「金堂」、「三宝院」などを中心に、上醍醐とは対照的に絢爛な大伽藍が広がる。応仁の乱によってほぼ全焼し、その後も幾度の火災によって焼失・再建を繰り返しているが、護摩道場前に建つ五重塔は創建当時のまま現在に残る。また五重塔内部に描かれた壁画も国宝に指定されており、中でも空海の肖像画は現存する最古のものである。
金堂(国宝)
入母屋造本瓦葺き。正面7間、側面5間。平安時代後期建立。豊臣秀吉の発願により紀州から移築したもので、慶長3年(1598年)から移築を開始し、秀吉没後の慶長5年(1600年)に落慶している。『紀伊名所図会』等によると、当初は紀州湯浅(和歌山県湯浅町)の満願寺(12世紀後半に建立された後白河法皇の御願寺)本堂であったという。部材には平安時代のものが残るが、堂が湯浅にあった鎌倉時代に改修を受けており、移築時の桃山時代の手法も混在する。立ちの高い入母屋屋根は近世風で、移築時の改修である。内部には本尊薬師三尊像(重要文化財)を安置する。堂内は内陣と外陣(礼堂)の境に結界や間仕切りがなく、一体の空間とする点に特色がある。
五重塔(国宝)
天暦5年(951年)建立。承平元年(931年)、その前年に亡くなった醍醐天皇の冥福を祈るために第三皇子の代明親王(よしあきらしんのう)が発願し、穏子皇太后の令旨で建立が計画された。しかし、代明親王の死去(937年)などがあって工事は停滞し、完成したのは発願の20年後であった。総高38メートル。うち相輪部が12.8メートルで、全体の3割以上を占める。屋根の逓減率が大きく、塔身の立ちが低いため、後世の塔のような細長いプロポーションにはならない。創建以来たびたび修理を経ているが、中でも天正13年(1585年)の地震では一部の軒が垂れ下がるなどの甚大な被害を受け、豊臣秀吉の援助で慶長3年(1597年)に修理が完成している。昭和25年(1950年)の台風でも被害を受け、同35年(1960年)に修理が完成した。京都に残る数少ない平安時代建築として貴重であるとともに、初重内部の両界曼荼羅と真言八祖を表した壁画も平安絵画の遺品として重要であり、塔本体とは別に「絵画」として国宝に指定されている。
上醍醐
西国三十三箇所第11番札所であり、西国一険しい札所として知られる。上り口にはかつて女人結界があったことから、女人堂がおかれ、そこから険しい山あいに、平安時代のままに残る国宝の薬師堂、醍醐寺の鎮守神である清瀧権現(せいりゅうごんげん)拝殿(国宝)、准胝堂、五大堂などが立ち並ぶ。上醍醐には有名な「醍醐水」が今も湧き出ているほか、醍醐山頂(標高450m)には、如意輪堂(重文)と開山堂(重文)と白山大権現が並ぶ。山頂から笠取山に向かう途中に奥の院がある。

宇治上神社は宇治神社に隣接しています。
こじんまりとしていますが、日本最古の神社建築とされる本殿は拝観する価値がありますね。
宇治神社も宇治上神社も拝観料は掛からないし、平等院からも近いので平等院に行った時には是非、寄ることをお勧めします。
更に宇治上神社から5分程のところに源氏物語ミュージアムがありました。入り口を入って右側は有料で500円ですが、左側は無料で売店や図書館などがあります。夏の暑いときに涼むには凄くいいです。




京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋





出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宇治上神社
所在地 京都府宇治市宇治山田59
位置 北緯34度53分31秒
東経135度48分41秒
主祭神 応神天皇
菟道稚郎子命
仁徳天皇
社格等 式内社(小)・村社
創建 不詳
本殿の様式 流造
例祭 5月1日

宇治上神社 (うじがみじんじゃ)は、京都府宇治市にある神社。世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成要素。

菟道稚郎子命(うじのわきのいらつこのみこと)・応神天皇・仁徳天皇を祀る。宇治神社と対をなす。
歴史
創建年代などの起源ははっきりしていない。すぐ近くに宇治神社があり、明治維新前は両方を合わせて宇治離宮明神、八幡社と呼ばれ、宇治神社を下社・若宮とするのに対して、宇治上神社は上社・本宮と呼ばれている。「延喜式神名帳」には「山城国宇治郡 宇治神社二座」とあり、それぞれ宇治神社・宇治上神社を指している。近くに平等院ができるとその鎮守社とされた。

2004年2月、奈良文化財研究所・宇治市などの年輪年代測定調査によれば、本殿は1060年ごろのものとされ、現存最古の神社建築であることが裏付けられるとともに、1052年創建の平等院との深い関連性が考えられる。
境内
現存最古とされる平安時代後期の本殿が残っている(外から見えるのは覆屋で、中に本殿が3つ並んでいる)。拝殿は鎌倉時代前期の宇治離宮を移築したものといわれ、寝殿造の趣きを伝えている。境内にある湧き水は桐原水と呼ばれ、宇治七名水の一つとされている。
文化財
国宝
本殿
拝殿

重要文化財
摂社春日神社本殿

宇治神社は宇治川の中にある中の島を渡った、平等院の反対岸にありました。
歩いて5分宇治神社は宇治川の中にある中の島を渡った、平等院の反対岸にありました。
歩いて5分ぐらいですが、中の島には先陣の碑とか十三重石塔があり、公園となっています。それらを見ながらゆっくり歩くと結構時間がかかるかも。
宇治神社は明治までは宇治上神社と二社一体となっていたとの説明が書いてありましたが、神社の敷地などは下鴨神社とかに比べると、はるかにこじんまりとしています。
京都日記 世界遺産・ときどき名古屋

京都日記 世界遺産・ときどき名古屋

京都日記 世界遺産・ときどき名古屋

京都日記 世界遺産・ときどき名古屋

京都日記 世界遺産・ときどき名古屋

京都日記 世界遺産・ときどき名古屋

宇治神社(うじじんじゃ)
重要文化財
鎌倉時代
応神天皇の皇子・菟道稚郎子の宮居跡
古くは離宮八幡宮 桐原日桁宮(きりはらひげたのみや)と称し、祭神は応神天皇の皇子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)とされている。日本書記によれば、兄の大鷦鶺(おおさざき)皇子(のちの仁徳天皇)との皇位をめぐる葛藤から宇治川に入水したという悲運の皇太子である。
流造りの本殿(重文)は鎌倉時代に建立されたものであるが、他にも木造狛 犬や白色尉面など貴重な文化財が伝わっている。
離宮祭といわれる例祭は、古くは田楽などの芸能が催されていたとの記録も残っているが、現在は最終日の6月8日に大きな御輿(みこし)が市中を巡幸する。
ぐらいですが、中の島には先陣の碑とか十三重石塔があり、公園となっています。それらを見ながらゆっくり歩くと結構時間がかかるかも。
宇治神社は明治までは宇治上神社と二社一体となっていたとの説明が書いてありましたが、神社の敷地などは下鴨神社とかに比べると、はるかにこじんまりとしています。

宇治神社(うじじんじゃ)
重要文化財
鎌倉時代
応神天皇の皇子・菟道稚郎子の宮居跡
古くは離宮八幡宮 桐原日桁宮(きりはらひげたのみや)と称し、祭神は応神天皇の皇子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)とされている。日本書記によれば、兄の大鷦鶺(おおさざき)皇子(のちの仁徳天皇)との皇位をめぐる葛藤から宇治川に入水したという悲運の皇太子である。
流造りの本殿(重文)は鎌倉時代に建立されたものであるが、他にも木造狛 犬や白色尉面など貴重な文化財が伝わっている。
離宮祭といわれる例祭は、古くは田楽などの芸能が催されていたとの記録も残っているが、現在は最終日の6月8日に大きな御輿(みこし)が市中を巡幸する。

09年7月12日(日)にまたふらりと1人で京都に行ってきました。春日井インターから7時45分に名神高速に入って丁度1時間の菩提寺PAでトイレ休憩をとりました。どこに最初に行こうか、考えた結果、京滋バイパスで宇治まで行くことにしました。
京都には学生のころアルバイトで何回も来ていましたが、平等院は一番忘れられない場所です。平等院でショッキングな連絡を受けてすぐに山形の実家に夜行で帰った思い出があります。
平等院には9時過ぎについて、結局お昼近くまでゆっくりみてました。

今回、初めて鳳凰堂の内部を拝観しました。
阿弥陀如来坐像は写真では観た事がありましたが、やはり本物はいいですね。一度は見ておくべきかな。
鳳翔館も初めて入りましたが、なかなか見所が多かったです。   間じかで梵鐘や鳳凰、菩薩像が鑑賞できるなんてうれしいですね。


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-平等院

京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-平等院


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-平等院

京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-平等院


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-平等院

京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-平等院










出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平等院
所在地 京都府宇治市宇治蓮華116
山号 朝日山
宗派 単立
本尊 阿弥陀如来
創建年 永承7年(1052年)
開基 藤原頼通、明尊(開山)
文化財 鳳凰堂、阿弥陀如来坐像ほか(国宝)
世界遺産
平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。山号を朝日山と称する。宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼通、開山は明尊である。
歴史
平等院の創建
京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルとも言われる左大臣である嵯峨源氏の源融(みなもと の とおる)が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていたが、翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。
浄土式庭園と鳳凰堂平安時代後期、日本では「末法思想」が広く信じられていた。釈尊の入滅(一般で言う「死去」)から2,000年目以降は、仏法がすたれ、天災人災が続き、世の中は乱れるとする思想である。平等院が創建された永承7年(1052年)は、当時の思想ではまさに「末法」の元年に当たっており、当時の貴族は極楽往生を願い、西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を祀る仏堂を盛んに造営した。

現在の平等院
現在の平等院は、天台宗系の最勝院(ともに鳳凰堂の西側にある)浄土宗の浄土院という2つの寺院が共同で管理している。浄土院は明応年間(1492年-1501年)、最勝院は承応3年(1654年)の創始であり、平等院が浄土・天台両宗の共同管理となったのは、天和元年(1681年)、寺社奉行の裁定によるものである。

1990年代以降、庭園の発掘調査・復元、鳳凰堂堂内装飾のコンピュータ・グラフィックスによる再現などが行われている。2001年にはそれまでの「宝物館」に代わり、「平等院ミュージアム鳳翔館」がオープンした。建築家栗生明は、鳳翔館(新建築2001年9月号)の設計で、日本芸術院賞を受賞している。

1996年から1997年にかけて、平等院の裏手に15階建てのマンション2棟が建ち、鳳凰堂の背景になってしまっている。創建当初からの風致が大きく損なわれ、これが景観法施行前の2002年に宇治市都市景観条例が制定されるきっかけとなった。当面の対策として平等院境内にクスノキが植樹されており、この木が高さ10メートルまで成長すると、鳳凰堂背景の景観を阻害しているマンションを完全に隠すことが期待されている[1]。


東本願寺は屋根の改修工事中でした。


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-東本願寺

京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-東本願寺
京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-東本願寺


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-東本願寺 東本願寺
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この項目では、京都市下京区にある真宗大谷派の本山「東本願寺」(正式名称 真宗本廟)について説明しています。
東本願寺
御影堂(修復前)
所在地 京都府京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754番地
位置 北緯34度59分27.66秒
東経135度45分30.44秒
山号 なし
宗旨 浄土真宗
宗派 真宗大谷派
寺格 本山
本尊 阿弥陀如来
創建年 大谷本願寺 - 元亨元年(1321年)
東本願寺 - 慶長7年(1602年)
開基 大谷本願寺 - 本願寺第三代・覚如
東本願寺 - 本願寺第十二代・教如
中興年 文明3年(1471年)頃
中興 蓮如(吉崎御坊・山科本願寺)
正式名 真宗本廟
(昭和62年〈1987年〉までは、本願寺)
別称 「お東」、「お東さん」
文化財 【国宝】
『顕浄土真実教行証文類』
【重要文化財】
「親鸞聖人像」、
『本願寺聖人伝絵』、他

京都タワーからの東本願寺東本願寺(ひがしほんがんじ、Higashi Hongan-ji)は、京都府京都市下京区烏丸七条にある真宗大谷派の本山の通称である。正式名称は、「真宗本廟」[1]。

東本願寺(真宗本廟)は、他派のような独立した宗教法人ではなく、真宗大谷派に包括される寺院ではない。同派が所有する礼拝施設等(伽藍)の総称である。

同派の宗憲には、「真宗本廟は、宗祖聖人の真影を安置する御影堂及び阿弥陀堂を中心とする聖域であって、本願寺とも称し、本派[1] の崇敬の中心、教法宣布の根本道場である」と規定[2] される。

2009年現在の門首は、浄如(大谷暢顕)。

堀川七条に位置する「西本願寺」(正式名称「本願寺」)の東に位置するため、「東本願寺」と通称される。また大谷派としても、「東本願寺」の通称を公式ホームページ・出版物などに用い、正式名称「真宗本廟」と併用している。他に、「お東」、「お東さん」とも通称される。


概要
本願寺が、東西に分立する以前の歴史の詳細は、本願寺の歴史のページを参照。
慶長7年(1602年)に、豊臣秀吉の命により退隠させられていた教如(光寿)が、徳川家康より烏丸六条[3] に寺地を寄進され、本願寺の第十二代に就任する。このことにより本願寺は、「堀川七条の本願寺」と「烏丸六条の本願寺」とに分立する。(詳細は、本願寺の歴史・「教如退隠」~「本願寺分立」のセクションを参照。)
かつて本願寺は正式な寺院であったが昭和62年(1987年)に、「大谷派」と包括・被包括の関係にあった宗教法人としての「本願寺」が法的に解散され、宗派と一体のものとされた。結果、本願寺は寺院ではなくなった。以後、東本願寺の正式名称は「真宗本廟」(「本廟」とは、同信同行の門信徒が宗祖親鸞の教えを聞信する根本道場・帰依処としての、親鸞の「はかどころ」の意)となる。(詳細は、お東騒動のページを参照。)
1977年11月2日には東本願寺爆破事件が起きている。