特別公開の国宝 龍吟庵を拝観しました。

ここも3つのお庭がそれぞれ特徴があって、特に龍門の庭が紅葉とマッチして見飽きませんでした。

京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-東福寺 龍吟庵



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京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-東福寺 龍吟庵



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-東福寺 龍吟庵



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龍吟庵
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所在地 京都府京都市東山区本町15丁目812
位置 北緯34度58分38.68秒
東経135度46分29.41秒
宗派 臨済宗東福寺派
寺格 東福寺塔頭
創建年 正応4年(1291年)
開基 無関普門
文化財
<国宝>
方丈
<重要文化財>
庫裏、表門、木造大明国師坐像、
銅無関禅師骨蔵器、石櫃

龍吟庵(りょうぎんあん)は、京都府京都市東山区にある臨済宗東福寺派の寺院で東福寺の塔頭である。

東福寺の主要伽藍の東北、本坊庫裏の背後から偃月橋(えんげつきょう)を渡った正面に位置する。東福寺第三世住持、無関普門(大明国師)の住居跡で、東福寺塔頭の第一位に置かれている。毎年11月に一般公開。

歴史
建暦2年(1212年) 信濃国にて無関普門(仏心大明国師)が誕生する。上京して東福寺開山円爾(聖一国師)のもとに参禅する。
建長3年(1251年) 無関普門が入宋する。
弘長2年(1262年) 無関普門が宋より帰国する。
弘安4年(1262年) 無関普門が一条実経の招きに応じて東福寺第三世住持となる。
正応4年(1291年) 無関普門により創建される。
正応4年(1291年) 12月12日、龍吟庵にて無関普門が死去する。
建造物
方丈(国宝)- 応仁の乱以前にさかのぼる室町時代初期に建造された現存最古の方丈建築。単層入母屋造、こけら葺。正面には両開き板唐戸の入口を設け、両端の柱間には遣戸をはめ込むなど、書院造に寝殿造風の名残もとどめている。
開山堂 - 方丈の背面に位置し、大明国師坐像(重要文化財)を安置する。
庫裏(重要文化財)
表門(重要文化財)

庭園
方丈を囲んで東・西・南の三庭からなっている。いずれも重森三玲の手による枯山水の庭で、昭和39年(1964年)の作庭である。

南庭(無の庭)
方丈の前庭で、白砂を敷いただけのシンプルな庭になっている。
西庭(龍門の庭、清光苑)
龍吟庵の寺号に因んで、龍が海から顔を出して黒雲に乗って昇天する姿を石組みによって表現している。竹垣には稲妻模様が施されている。
東庭(不離の庭)
大明国師が幼少の頃、熱病にかかって山中に捨てられた時、二頭の犬が国師の身を狼の襲撃から守ったという故事を石組みで表している。鞍馬の赤石を砕いたものが敷かれている。

方丈も拝観しましたが、方丈から見る通天橋も素晴しいです。
4つのお庭もそれぞれ赴きがまったく違ってみていて飽きないお庭です。

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方丈
明治23年(1890年)の再建。正面前庭にある唐門は明治42年(1909年)に造営され、昭憲皇太后より下賜されたものである。庭園は近代の造園家、重森三玲によって昭和13年(1938年)に作庭され、方丈を囲んで四方に配される。釈迦成道を表現し、八相の庭と命名されている。鎌倉期庭園の質実剛健な風格を基本とし、これに近代芸術の抽象的構成をとり入れた枯山水庭園である。
南庭 - 荒海の砂紋の中に蓬莱、方丈、瀛洲、壺梁の四仙島を表現した配石で、右方には五山が築山として表現されている。
北庭 - 南の恩賜門内にあった敷石を利用し、石と苔を幾何学的な市松模様に配している。
西庭 - さつきの刈込みと砂地が大きく市松模様に入り、くず石を方形に組んで井田を意図している。
東庭 - 東司の柱石の余材を利用して北斗七星を構成し、雲文様の地割に配している。
東福寺の通天橋は並んだ甲斐がありました。
まさに美しいの一言でした。
こんなに人が集まるのもしょうがないです。
紅葉を心ゆくまで楽しむことができました。


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-東福寺 通天橋


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通天橋
仏殿から常楽庵に至る渓谷・洗玉澗(せんぎょくかん)に架けられた橋廊で、天授6年(1380年)に春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたと伝えられる。昭和34年(1959年)台風で崩壊したが2年後に再建、その際橋脚部分は鉄筋コンクリートとなった。

境内には宋から伝わった「通天モミジ」と呼ばれる三葉楓(葉先が3つにわかれている)など楓の木が多い。もとは桜の木が植わっていたが「後世に遊興の場になる」という理由で伐採され、楓の木が植えられたものである。

伏見稲荷大社から山を下って、東福寺に行きました。
11時過ぎに着きましたが、通天橋の拝観する一般客はあり得ないほどの列になっていました。
通天橋の入り口から本堂の前まで列が伸びていました。
この時期は午前中は避けた方が賢明です、午後2時すぎくらいには解消していました。
それにしても東福寺の紅葉のは凄いですが、人の多さも物凄いです。でも、それまでしても見る価値はありました。


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東福寺
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東福寺

本堂(仏殿)
所在地 京都府京都市東山区本町15丁目778
山号 慧日山(えにちさん)
宗派 臨済宗東福寺派
寺格 大本山、京都五山四位
本尊 釈迦如来
創建年 嘉禎2年(1236年)
開基 九条道家
正式名 慧日山 東福禅寺
文化財 <国宝>
三門、宋版太平御覧、
絹本著色無準師範像 他
<重要文化財>
常楽庵、禅堂、偃月橋、
絹本著色釈迦三尊像、
木造地蔵菩薩坐像 他多数

東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区本町にある臨済宗東福寺派大本山の寺院。山号を慧日山(えにちさん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は、九条道家、開山(初代住職)は聖一国師円爾(しょういちこくしえんに)である。京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭(たっちゅう、山内寺院)を有する大寺院である。

歴史
東福寺は京都市東山区の東南端、伏見区と境を接するあたりにある。この地には延長2年(924年)に藤原忠平によって建てられた藤原氏の氏寺・法性寺(ほっしょうじ)の巨大な伽藍があった(法性寺は、JR・京阪東福寺駅近くに小寺院として存続している)。嘉禎2年(1236年)、九条道家(摂政・鎌倉将軍藤原頼経の父)は、この地に高さ5丈(約15メートル)の釈迦像を安置する大寺院を建立することを発願、寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」とした。5丈の釈迦像を安置する仏殿の建設工事は延応元年(1239年)から始めて、完成したのは建長7年(1255年)であった。高さ5丈の本尊釈迦像は元応元年(1319年)の火災で焼失、14世紀半ば頃に再興されるが、明治14年(1881年)の火災で再び焼失している。なお、東福寺には巨大な「仏手」(現存部分の長さ2メートル)が保管されており、旧本尊像の左手部分のみが明治の火災の際に救い出されたものと推定されている[1]。これは創建時の本尊ではなく、14世紀に再興された本尊像の遺物であるが、本尊の「高さ5丈」というのはあながち誇張ではなかったことがわかる。

金曜の朝のTV(ズームイン)で実相院の紅葉を生中継していましたが、私も床もみじが見たくて京都に出かけました。
朝早く実相院に行きたいと思っていましたが、起きるのが遅くなって結局いつもの京都行きより遅くなってしましました。
京都東インターの出口でかなり詰まっていましたので、予定変更で中心部を避け、南側から迂回して伏見稲荷大社に10時ごろにつきました。
伏見稲荷大社もかなり人出がありました。ここは不思議な空間がいっぱいありいつ行っても飽きることが無いです。
紅葉も身頃の場所がいくつもありました。特に山の上からは紅葉と京都の街並が一体となって絶景でした。
ただ、残念ながら曇っていたのと私の腕が悪くて写真の写りが暗くなってしまいました。


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伏見稲荷大社
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所在地 京都市伏見区深草藪之内町68
位置 北緯34度58分01秒
東経135度46分23秒
主祭神 宇迦之御魂大神
社格等 式内社(名神大)・二十二社・官幣大社
創建 和銅年間(708〜715年)
本殿の様式 流造
札所等 神仏霊場 巡拝の道123番
例祭 5月3日

伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は京都市伏見区にある神社である。稲荷神を祀る全国約4万社の稲荷神社の総本宮とされる。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。

式内社(名神大)、二十二社の上七社の一社で、旧社格は官幣大社。

宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)を主祭神とし、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神(しのおおかみ)を配祀して、五柱の神として祀るが、これら五柱の祭神は稲荷大神の広大な神徳の神名化としている[1][2]。稲荷神が農業の神であるために、五穀豊穰・商売繁盛・交通安全といったご利益がある。

毎年初詣の時期は近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める。

モーターショーの帰り、熱田神宮を参拝してきました。
もう暗くなってきていましたので、長居はしませんでした。
本当に久々の熱田神宮でしたが、もう参拝客もそれほどおりませんでしたのゆっくりと参拝できました。

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熱田神宮
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熱田神宮

熱田神宮本宮
所在地 愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1
主祭神 熱田大神(天叢雲剣)
社格等 式内社(名神大)
官幣大社
別表神社
創建 不詳
本殿の様式 神明造
例祭 6月5日(熱田祭)
主な神事 歩射神事
御煤納神事

熱田神宮(あつたじんぐう)は、愛知県名古屋市熱田区にある神社である。

概要
祭神は熱田大神であり、三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ。天叢雲剣)を神体としている。同項に詳しいが、剣は壇ノ浦の戦いで遺失したとも神宮に保管されたままとも言われている。

相殿に天照大神、素盞嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命を祀る。

創建は不詳だが、景行天皇朝には、すでに土着の信仰神として存在していたらしい。

官幣大社、式内社(名神大)で、建物は伊勢神宮と同じ神明造であるが、1893年(明治26年)までは尾張造と呼ばれる独特の建築様式であった(氷上姉子神社に尾張造の建築様式が残っている)。社務所に当たる組織は熱田神宮宮庁と呼ぶ。その他施設に、宝物館、熱田神宮会館、能楽殿。熱田神宮の敷地内には愛知県神社庁がある。

東海道名所図会に、熱田大神宮と記載される。

海道記に、熱田の宮の御前を過ぐれば、とある。

東関紀行に、尾張の國熱田の宮に到りぬ、とある。また、

或人の曰く、「この宮は素盞嗚尊(すさのをのみこと)なり、初めは出雲の國に宮造りありけり。八雲立つ〔(*「)八雲たつ出雲八重垣妻籠に八重垣つくる其の八重垣を(*」)(古事記)〕と云へる大和言葉も、これより始まりけり。その後、景行天皇の御代に、この砌(みぎり)に跡を垂れ給へり。」と云へり。又曰く、「この宮の本體は、草薙と號し奉る神劒なり。景行の御子、日本武尊と申す、夷(えみし)を平げて歸りたまふ時、尊は白鳥となりて去り給ふ、劒(つるぎ)は熱田に止り給ふ。」とも云へり。と記載されている。

祭神
熱田大神(あつたのおおかみ)とは草薙剣の神霊のこととされるが、明治以降の熱田神宮や明治政府の見解では、熱田大神は草薙剣を御神体とする天照大神のことであるとしている。しかし、創建の経緯などからすると日本武尊と非常にかかわりの深い神社であり、熱田大神は日本武尊のことであるとする説も根強い。

相殿には、天照大神、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命(たけいなだねのみこと)と草薙剣に縁のある神が祀られている。素盞嗚尊は、ヤマタノオロチ退治の際に、ヤマタノオロチの尾の中から草薙剣を発見し、天照大神に献上した。天照大神は、その草薙の剣を天孫降臨の際に迩迩芸命(ににぎのみこと)に授けた。日本武尊は、草薙剣を持って蝦夷征伐を行い活躍したあと、妃の宮簀媛命のもとに預けた。宮簀媛命は、熱田の地を卜定して草薙剣を祀った。建稲種命は宮簀媛命の兄で、日本武尊の蝦夷征伐に副将として従軍した。

歴史
第12代景行天皇の時代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定の帰路に尾張へ滞在した際に、尾張国造乎止与命(おとよのみこと)の娘宮簀媛命(みやすひめのみこと)と結婚した。草薙剣を妃の手許へ留め置いた。日本武尊が能褒野で亡くなると、宮簀媛命は熱田に社地を定め、剣を奉斉鎮守したのが始まりと言われる。そのため、三種の神器のうち草薙剣は熱田に常に置かれるようになり、伊勢神宮に次ぐ権威のある神社として栄えることとなった。

名古屋モーターショーに行きました。
車で名古屋の中心部を抜けて行こうとしたら、ちょうど名古屋シティマラソンの時間のぶつかりました。
交通規制のためぐるぐる回らされてしまいました。
その後は順調に金城ふ頭のポートメッセなごやに到着しました。
10年ぐらい前は凄い渋滞で途中でUターンしたこともありましたが、今は高速でも行けるし、今年はそんなに動員数も多くはないのか、道路はがらがらでした。
前回の07年に比べるとちょっと寂しいモーターショーでした。
国産車では三菱、スバル、マツダの3社が出展を辞退していますし、輸入車ではフォルクスワーゲン、アウディの出展がありませんでした。
経費節減でモデルさんの数も少なく、カメラ小僧やカメラおじさんには寂しく、目玉も前回はGTーRが凄い人気でしたが、今回はレクサスのLFAぐらいでしょうか。


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この経済状態ではしょうがないとはいえ、2年に1回のお祭りとしては寂しいですね。


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名古屋テレビ塔は毎日のように見てはいますが、名古屋の生活は10年以上でもまだ中に入ったことが無かったので、今回入ってみました。


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-名古屋テレビ塔



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といっても職場関係の結婚式に行ったのですが。


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京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-名古屋テレビ塔

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数年前に内部を改装してオシャレになったとは聞いてはいましたが、結婚式もやるとは知りませんでした。
地上90メートルの展望台で式を挙げ、4Fのレストランで披露宴が行われました。


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京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-名古屋テレビ塔



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夜景を見ながらの披露宴も良かったし、式や披露宴も手作り感覚で好感が持てました。
新婦の両親への挨拶なんかは、年のせいかぐっときて涙を堪えるのに必死でした。
テレビ塔の結婚式もなかなか良かったです。

名古屋テレビ塔
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用途 電波塔・展望台
設計者 内藤多仲・日建設計
施工 竹中工務店
管理運営 名古屋テレビ塔株式会社
高さ 180m
着工 1953年(昭和28年)9月19日
竣工 1954年(昭和29年)6月19日
所在地 名古屋市中区錦3丁目6-15号先
■(Template:建築物全般)
名古屋テレビ塔(なごやてれびとう)は、愛知県名古屋市中区栄の久屋大通公園に立つ、日本で最初に完成した集約電波塔。名古屋テレビ塔株式会社(Nagoya TV Tower Corporation)が保有・運営している。

概要
1953年9月19日着工、昼夜を通して工事が行われ、1954年6月19日竣工、翌日には開業・電波の発射を開始した。高さ180m。設計者は内藤多仲。名古屋市中心部のシンボルとして親しまれている。

現在はNHK(総合・教育)、中部日本放送(CBC)、東海テレビ放送(THK)、名古屋テレビ放送 通称・メ〜テレ(NBN)のVHF4局がここから地上波アナログテレビの電波を送信している[1]。

名古屋市内の繁華街ということなどもあり、一部放送局の中にはお天気カメラを設置しているところもある。

構造
地上90mにスカイデッキ、100mに金網で囲まれたスカイバルコニーがあり、名古屋市街や御嶽山などの眺望が楽しめる(展望階は有料)。3階にはレストランの他、娯楽コーナーや土産を売るショップもある。夜間にはライトアップが毎日、日没30分前-22時に行われており、ライトアップの中でもセントラルパークからのレーザー光は特に目立つ。

2006年に行われた大改装により、3階に設置されていたレストラン、娯楽コーナーや土産を売るショップは無くなり、現在はレストランが入っている。4階にはギャラリーが設置され、30mの高さからの景色は見られなくなってしまっている。

歴史

久屋大通公園からライトアップされたテレビ塔を望む。1954年 開業。当時はテレビ塔を超える高層建築物はどこにも無かった。
1956年 展望階段を使ったクライミング競争を開催。
1964年 入塔者1,000万人達成。
1968年 地上100メートルの展望バルコン完成。
1989年 ライトアップ開始。
1998年 入塔者3,000万人達成。
2003年 デイトレードで儲けた男性がテレビ塔の展望台から紙幣をばら撒く事件が発生。(名古屋ドル紙幣ばら撒き事件)
2005年 文化庁から「国土の景観に寄与しているもの」として国登録有形文化財に登録。
2006年 レストランや土産売場があったフロアを改装し、名古屋を基盤としたレストラン「ゼットン」が入居。名古屋の名所や放送文化を紹介するコーナーも設置。
2008年 NPO法人地域活性化支援センターが主催する恋人の聖地に認定される。

鷹峯から近くの大徳寺に行ってみました。
大徳寺は沢庵和尚や一休さんで有名な大寺院ですが、私は今回初めてでした。
大徳寺自体は拝観できないんですね、初めて知りました。


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-大徳寺



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-大徳寺



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-大徳寺



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-大徳寺



多く塔頭の中で拝観できるのは常時できる4ヶ院と特別拝観が数ヶ所ありましたが、大仙院と高桐院の2ヶ院を拝観しました。
大仙院は写真が全面禁止でした。室内の撮影禁止はよくありますが、すべて禁止はかなり残念でした。


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-大徳寺 大仙院



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-大徳寺 大仙院



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-大徳寺 大仙院



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-大徳寺 大仙院



高桐院もあんまり期待しないで拝観しましたが、お庭も室内も紅葉も最高でした。


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-大徳寺 高桐院



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-大徳寺 高桐院



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-大徳寺 高桐院



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-大徳寺 高桐院



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-大徳寺 高桐院




大徳寺
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所在地 京都府京都市北区紫野大徳寺町53
位置 北緯35度2分38.10秒
東経135度44分45.89秒
山号 龍寶山
宗派 臨済宗大徳寺派
寺格 大本山
本尊 釈迦如来
創建年 正中2年(1325年)
開基 宗峰妙超
正式名 龍寶山 大徳禅寺
文化財 方丈、唐門、絹本墨画淡彩観音猿鶴図ほか(国宝)
勅使門、三門、仏殿、法堂、木造大燈国師坐像ほか(重要文化財)
方丈庭園(非公開)(史跡・特別名勝)

大徳寺(だいとくじ)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある禅宗寺院で、臨済宗大徳寺派大本山である。山号を龍寶山(りゅうほうざん)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。

京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿、法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭(たっちゅう、本山寺院の境内周辺にある関連寺院)が立ち並び、近世の雰囲気を残している。大徳寺は歴代多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物、庭園、障壁画、茶道具、中国伝来の書画など、多くの文化財を伝えている。

歴史
大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は、弘安5年(1282年)、播磨国(兵庫県)に、同国守護・赤松氏の家臣・浦上(うらのえ)氏の子として生まれた。11歳の時、地元の大寺院である書写山円教寺に入り、天台宗を学ぶが、のち禅宗にめざめ、鎌倉の高峰顕日(こうほうけんにち)、京の南浦紹明(なんぽじょうみん)に参禅。南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るにしたがって宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)に師から印可を得た。

その後数年、京都東山で修行を続けていた宗峰妙超は、正和4年(1315年)(元応元年・1319年とも)、同郷の赤松則村(円心)の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂を建立した。これが大徳寺の起源とされる。花園上皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)、大徳寺を祈願所とする院宣を発している。寺院としての形態が整うのはこの頃からと思われる。

後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発した。

しかし、建武の新政が終わって足利氏が天下を取ると、後醍醐天皇と関係の深い大徳寺は足利氏から軽んぜられ、五山十刹から除かれてしまった。至徳3年(1386年)には、五山十刹の最下位に近い、十刹の第9位とされている。このため大徳寺は、政府の庇護と統制下にあり世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心する独自の道をとった。五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺、妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。

その後の大徳寺は、貴族、大名、商人、文化人など、幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う人びとが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎、千利休をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。

享徳2年(1453年)の火災と応仁の乱(1467年 - 77年)で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商らの協力をえて復興。近世以降も豊臣秀吉や諸大名の帰依を受けた。

江戸時代初期に幕府の統制を受け、元住持である名僧、沢庵宗彭が紫衣事件と呼ばれる流罪の圧迫を受けたが、幕府との関係ものちに回復した。寺運は栄え今日に至っている。

塔頭寺院
塔頭寺院においては拝観を認めているところと認めていないところが混在するため、訪問者においては注意が必要である。現在、大部分の塔頭で一般参詣を認めておらず、常時拝観可能な塔頭は龍源院、瑞峰院、大仙院、高桐院の4か院である(2008年現在)。

源光庵から歩いて数分の光悦寺に行ってみました。
光悦寺のお庭の紅葉はちょっとピークは過ぎたかなという感じでしたが、
道路に面した参道はピークでまさに紅葉のトンネルでした。


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-光悦寺



京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-光悦寺



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駐車場のもみじも見ごたえがありました。

光悦寺
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光悦寺

光悦垣
所在地 京都府京都市北区鷹峯光悦町29
位置 北緯35度3分12.19秒
東経135度43分49.26秒
山号 大虚山
宗派 日蓮宗
創建年 明暦2年(1656年)

光悦寺(こうえつじ)は京都市北区鷹ヶ峰にある日蓮宗の寺院。山号は大虚山。親師法縁。


概要
鷹峰三山(鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰)を望む景勝地である。

江戸時代の芸術家である本阿弥光悦に元和元年(1615年)に徳川家康がこの地を与えた。『本阿弥行状記』によれば、当時は「辻斬り追い剥ぎ」の出没する物騒な土地であったという。この地に光悦の一族や様々な工芸の職人らが移り住み芸術の集落となった。光悦の死後に屋敷は寺となり、境内には光悦の墓碑がある。

境内
境内には大虚庵、三巴亭、了寂軒、徳友庵、本阿弥庵、騎牛庵、自得庵の7つの茶室が散在し、庫裏に接して妙秀庵がある。これらはいずれも大正時代以降の建物である。

大虚庵 - 境内に建つ茶室。「大虚庵」は、光悦が鷹ヶ峰に営んだ居室の名称であるが、現在ある大虚庵は大正4年(1915年)に新たに建てられたもので、道具商・土橋嘉兵衛の寄付、速水宗汲の設計である。ただし、建設後に光悦会によって改造されており、正面入口の貴人口(障子3枚立て)がにじり口に変更されたほか、間取りも当初の三畳台目から四畳+二台目に変わっている。大虚庵前の竹の垣根は光悦垣またはその姿から臥牛(ねうし)垣と呼ばれ徐々に高さの変る独特のものである。
三巴亭 - 大正10年(1921年)に建てられた数奇屋建築で、八畳2室、水屋等からなる。北西の八畳は光悦堂と称し、仏壇には光悦の木像を安置する。