大原の次に鷹峯に向かいました。
源光庵の紅葉はまさにピークで見頃でした。


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駐車場のもみじが特に真赤でした。
悟りの窓、迷いの窓も良かったです。


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源光庵
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源光庵

所在地 京都市北区鷹峯北鷹峯町47
位置 北緯35度3分17.33秒
東経135度43分54.2秒
山号 鷹峰山
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦牟尼仏
創建年 1346年(貞和2年)
開基 徹翁義亨
正式名 鷹峰山 寶樹林 源光庵

源光庵(げんこうあん)は、京都市北区鷹峯(たかがみね)にある曹洞宗の寺院。山号は鷹峰山。正式には鷹峰山寶樹林源光庵という。

本尊は釈迦牟尼仏。


歴史
1346年(貞和2年)に臨済宗大徳寺の徹翁義亨の隠居所として開基。当初は復古堂と呼ばれた。その後、1694年(元禄7年)に卍山道白により曹洞宗に改宗された。

境内
本堂
1694年の建立。

天井板は伏見桃山城から移築したもので、1600年に徳川家家臣鳥居元忠らが石田三成に破れ自刃したときの跡が残り、血天井となっている。その脇に丸窓と角窓がありそれぞれ悟りの窓、迷いの窓と呼ばれている。源光庵


開山堂
1719年(享保4年)建立。

庭園
北山を借景とした枯山水。

三千院のあと大原をぶらぶらしながら、寂光院まで歩いて行きました。
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平日なのでかそんなに歩いている観光客はおらず、ありえないのですが、途中道を間違えて引返したりしてかなり歩いてしまいました。
寂光院も紅葉のピークは過ぎた感じでしたが、それでも結構楽しめました。


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寂光院
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寂光院

本堂(2005年6月再建)
所在地 京都府京都市左京区大原草生町676
位置 北緯35度7分26.76秒
東経135度49分15.75秒
山号 清香山
宗派 天台宗尼寺
本尊 六万体地蔵菩薩
創建年 伝・推古天皇2年(594年)
開基 伝・聖徳太子
正式名 清香山 玉泉寺 寂光院
文化財 地蔵菩薩立像(国重文)

寂光院(じゃっこういん)は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。山号を清香山と称する。寺号は玉泉寺。本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は聖徳太子と伝える。平清盛の娘・建礼門院が、平家滅亡後隠棲した所であり、『平家物語』ゆかりの寺として知られる。
起源と歴史
寂光院の草創について、明確なことはわかっていない。寺伝では推古天皇2年(594年)、聖徳太子が父用明天皇の菩提のため開創したとされ、太子の乳母玉照姫(恵善尼)が初代住職であるという。しかし、江戸時代の地誌には空海開基説(『都名所図会』)、11世紀末に大原に隠棲し大原声明を完成させた融通念仏の祖良忍が開いたとの説(『京羽二重』)もある。哲学者梅原猛は、大原が小野妹子の領地であったことなどから、聖徳太子開基もありうるとしている。現在、寂光院はそうした草創伝説よりも、『平家物語』に登場する建礼門院隠棲のゆかりの地として知られている。

建礼門院徳子(1155-1213)は平清盛の娘、高倉天皇の中宮で、安徳天皇の生母である。寿永4年(1185年)、壇ノ浦で平家一族が滅亡した後も生き残り、侍女の阿波内侍とともに尼となって寂光院で余生を送った。寂光院や三千院のある大原の里は、念仏行者の修行の地であり、貴人の隠棲の地であった。平家一門と高倉・安徳両帝の冥福をひたすら祈っていた建礼門院をたずねて後白河法皇が寂光院を訪れるのは文治2年(1186年)のことで、この故事は『平家物語』の「大原御幸」の段において語られ、物語のテーマである「諸行無常」を象徴するエピソードとして人々に愛読された。

境内
本堂は淀殿の命で片桐且元が慶長年間(1596-1615)再興したものであったが、平成12年(2000年)5月9日の不審火で焼失した。この際、本尊の地蔵菩薩立像(重文)も焼損し、堂内にあった建礼門院と阿波内侍の張り子像(建礼門院の手紙や写経を使用して作ったものという)も焼けてしまった。現在の本堂は平成17年(2005年)6月再建された。同時に新しく作られた本尊や建礼門院と阿波内侍の像も安置されている。

宝物殿は「松智鳳殿」という名称で、平成18年(2006年)10月に開館した。建礼門院の陵墓はもともと境内地にあったが、明治以降は宮内省(現・宮内庁)の管理下に移り、境内から切り離されている。

文化財
地蔵菩薩立像(重文)-当寺の旧本尊である。寛喜元年(1229年)の作で、像高256センチの大作である。像内に3,000体以上の地蔵菩薩の小像ほか、多くの納入品を納めていた。2000年に起きた本堂の火災の際、(2007年5月9日時効成立)本体は焼損したが、像内納入品は無事で、現在も「木造地蔵菩薩立像(焼損)」の名称で、像内納入品ともども重要文化財に継続して指定されている。現在は本堂よりも高台にある収蔵庫に安置され、特定日のみ一般に公開される。
なお、新しい本尊像は財団法人美術院国宝修理所によって3年半をかけて制作され、2005年に完成した。ヒノキ材の寄木造で、旧本尊の新造時の姿を忠実に模している。建礼門院と阿波内侍の像は、もともと張り子像であったが、今回木造で作り直された。

11月19日に京都に行ってきました。
春日井インターから名神にのって、今回は最初に大原に行こうと栗東インターで降りて琵琶湖大橋を渡って大原に向かいました。
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名古屋から大原まで2時間くらいでしょうか。
9時半ごろに着きましたが、平日のせいでしょうか駐車場はまだがらがらでした。
最初に三千院に向かいましたが、大原の紅葉の見ごろは過ぎた様でした。


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-三千院



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でもまだそれなりに紅葉は楽しめました。
三千院は学生の頃何回かはきたことがありますが、それ以来なので数十年ぶりです。
どんなものがあったか、ほとんど忘れていましたが、往生極楽院はかすかに思い出しました。
三千院はなかなかいいですね、ゆっくり見て周ってついお昼過ぎまでいてしまいました。
さすが三千院です、お昼ごろには観光客でいっぱいでした、各駐車場も結構混雑していました。

三千院
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三千院

往生極楽院(重要文化財)
所在地 京都府京都市左京区大原来迎院町540
位置 北緯35度7分11.35秒
東経135度50分3.92秒
山号 魚山(ぎょざん)
宗派 天台宗
本尊 薬師如来
創建年 延暦年間(782年 - 806年)
開基 最澄
別称 三千院門跡、梶井門跡
札所等 西国薬師四十九霊場第四十五番
文化財 阿弥陀三尊坐像(国宝)
往生極楽院阿弥陀堂、木造救世観音半跏像ほか(重要文化財)

三千院(さんぜんいん)は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。三千院門跡とも称する。山号は、魚山(ぎょざん)、本尊は薬師如来、開基は最澄である。

京都市街の北東山中、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1つに数えられている。
歴史
三千院と往生極楽院
三千院は8世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源をもち、のちに比叡山東麓の坂本(現・大津市)に移され、たび重なる移転の後、1871年(明治4年)に現在地に移ったものである。「三千院」あるいは「三千院門跡」という寺名は1871年以降使われるようになったもので、それ以前は「梶井門跡」「梶井御所」「梶井宮」などと呼ばれ、「梨本門跡」「円徳院」などの別称もあり、「円融房」が正式の寺名だったようである。一方、往生極楽院(旧称・極楽院)は、平安時代末期の12世紀から大原の地にあった阿弥陀堂であり、1871年に三千院の本坊がこの地に移転してきてから、その境内に取り込まれたものである。

境内には往生極楽院のほか、宸殿、客殿などの建物がある。このうち、境内南側の庭園内にある往生極楽院は12世紀に建てられた阿弥陀堂で、内部には国宝の阿弥陀三尊像を安置している(三千院と往生極楽院は元来は別々の寺院であった)。

この日は特別公開の最終日でした。
特別公開という言葉には弱いので、なにが特別公開なのか良くわかりもしないんですが拝観しました。
境内では若い僧侶の方が大勢掃除をしていて、その人数の多さにちょっと驚きました。
このお寺は真言宗智山派の総本山で研修僧の研修の場ともなっているんですね。
収蔵庫には、桃山時代に長谷川等伯らによって描かれた国宝の金碧障壁画の「楓図」「桜図」「松と立葵の図」「松に秋草図」などが多数ありました。それらのレプリカが大書院にあります。レプリカは当時の色鮮やかさを再現しており、本物は色鮮やかさは薄れていますがやさしい落ち着きがありました。
特別公開なのは大書院の脇の宸殿でした。
ここには堂本印象氏の襖絵が飾られています。
お寺の襖絵としては賛否両論があったというパステルカラーの近代女性などの襖絵が数点あります。
私も最初はちょっと驚きましたが、これはこれで京都の懐の深さと感じました。
まだ真新しい講堂には田渕俊夫画伯の襖絵があり、こちらも昨年奉納されたばかりの墨の濃淡で表現された襖絵で、見応えがありました。


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-智積院



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智積院
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智積院(ちしゃくいん)は、京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院である。山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)という。本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥(げんゆう)である。智山派大本山として、成田山として知られる千葉県成田市の成田山新勝寺、「川崎大師」の通称で知られる神奈川県川崎市の川崎大師平間寺(初詣の人出で例年日本一を争う)及び東京都八王子市の高尾山薬王院がある。

起源と歴史
智積院の歴史は複雑で、紀州にあった大伝法院と、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松のために建てた祥雲寺という2つの寺が関係している。

智積院は、もともと紀州(現在の和歌山県岩出市)根来山(ねごろさん)大伝法院の塔頭(たっちゅう、山内寺院)であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁(かくばん)が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、根来山内の学問所であった。

近世に入って、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで、全山炎上した。当時の根来山には2,000もの堂舎があったという。当時、智積院の住職であった玄宥(尭性/ぎょうしょう、1529-1605)は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れた。玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。

関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山の豊国神社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。さらに、三代目住職日誉の代、元和元年(1615年)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、復興後の智積院の寺号を「根来寺」、山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」とした。

祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、天正19年(1591年)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。

この客殿は天和2年(1682年)の火災で全焼しているが、障壁画は大部分が助け出され、現存している。現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせたためと推定されている。

御即位20年記念京都御所特別公開に行ってきました。
今回の公開は,御即位20年を記念して,紫宸殿,清涼殿,小御所等の参観を中心とした例年の一般公開コースに加え,通常非公開の皇后宮常御殿,飛香舎,若宮・姫宮御殿及び朔平門を特別に公開されています。
日曜なのでかなりの混雑を覚悟で行きましたが、入場の待ち時間は無くすんなりと入場できました。
中はやはりすごい人でしたが、御所の敷地も広大なので比較的ゆっくり参観できました。
ただ御所の駐車場は混んでいたので、外のコインパーキングに止めましたが、京都御苑のなかを延々と御所まで歩くことになり、御所の中もこれでもかというぐらい歩きますので本当にいい運動になりました。
この日の催し物は蹴鞠でしたが、残念なことに見逃してしまいました。


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-京都御所


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京都御所
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京都御所(きょうとごしょ)は、京都府京都市上京区にある皇居。鎌倉時代中期から明治時代初期まで天皇が住んでいた宮殿。

解説
明治維新の東京行幸により、天皇が東京の皇居(旧江戸城)に移ったため、1877年(明治10年)保存された。明治以降は京都皇宮(きょうとこうぐう)とも称される。

元々平安京での正式な皇居は平安京の中央部付近に位置する内裏であったが、戦乱などによって荒廃したために里内裏に移った。土御門東洞院内裏は、この里内裏の一つで、後に北朝と呼ばれる事になる持明院統の天皇が歴代居住した御所であった。

ちなみに南朝と呼ばれる事になる大覚寺統の天皇の御所は二条富小路内裏であった。現代の京都御所は土御門東洞院内裏そのものではなく、土御門東洞院内裏を基に拡充され、幕末期に今日の敷地面積が確定したものである。広さは約20.2ヘクタール。

普段は宮内庁へ参観申請をすることで御所内を参観出来るほか、春と秋には一般公開される。

概要
京都御所は、1869年(明治2年)の東京行幸まで歴代天皇の居所・執務所であった。現在(21世紀)の京都御所は国有財産で、宮内庁が管轄する「皇室用財産」に分類されている。隣接して京都大宮御所、仙洞御所があり、また北隣の今出川通を挟んで同志社大学と同志社女子大学(両校とも今出川キャンパス)が位置する。

現在は京都御所、京都大宮御所と仙洞御所を宮内庁が管理し、その周囲の国民公園である京都御苑を環境省が管理している。京都市民は京都御苑も含めて、単に「御所」(ごしょ)と呼ぶ事が多い。なお海外の宮殿などと異なり、御所を覆う塀はあまり高くない。

平安京建都当初の内裏は現在の京都御所よりかなり西方にあり、JR西日本二条駅の近くの千本丸太町交差点北東の位置にあった。

現存の京都御所はもとは里内裏の一つで、土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)と言い、1331年(元弘元年、元徳3年)、北朝の光厳天皇が最初に使用した内裏である。初は、一町四方の敷地であった。ここにあった内裏は江戸時代だけで8回再建されており(うち6回は火災焼失による再建)、現存する建物は江戸末期の1855年(安政2年)、平安様式にならって再建されたもので安政内裏と呼ばれるものである。

1877年(明治10年)、東京の皇居に移っていた明治天皇が京都を訪れた際、東幸後10年も経ずして施設及び周辺の環境の荒廃が進んでいた京都御所の様子を嘆き、『京都御所を保存し旧観を維持すべし』と宮内省(当時)に命じた。

1945年(昭和20年)には戦時中の建物疎開で建築物の半数近くが取り壊された。

主な建物としては、紫宸殿(ししんでん)、清涼殿(せいりょうでん)、小御所(こごしょ)、御学問所(おがくもんじょ)、御常御殿(おつねごてん)、迎春(こうしゅん)、御涼所(おすずみしょ)、皇后宮御常御殿(こうごうぐうおつねごてん)、若宮・姫宮御殿(わかみや・ひめみやごてん)、飛香舎(ひぎょうしゃ)などがある。
仙堂からぶらぶらと曼殊院まで歩いていきました。
往復にすると結構ありました。
帰りに鷺森神社・豊稲荷神社に寄ろうとして道を間違えて、全体でかなり歩きました。車で行けば良かったとつくづく思いましたが、いい運動にはなりました。
曼殊院の紅葉も全体的にはまだ早かったですが、参道のところにどころにすばらしく紅葉している木が何本かはありました。

京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-曼殊院


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曼殊院
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曼殊院

勅使門
所在地 京都府京都市左京区一乗寺竹ノ内町42
位置 北緯35度2分55.74秒
東経135度48分11秒
山号 なし
宗派 天台宗
寺格 門跡寺院
本尊 阿弥陀如来
創建年 天暦年間(947年 - 957年)
開基 是算
別称 竹内門跡
札所等 近畿三十六不動尊17番
文化財 黄不動画像・古今和歌集(曼殊院本)1巻(国宝)
大書院・小書院・木造慈恵大師坐像ほか(重要文化財)
庭園(国の名勝)

曼殊院(まんしゅいん)は京都市左京区一乗寺にある天台宗の仏教寺院である。山号はなし。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は是算(ぜさん)である。竹内門跡とも呼ばれる門跡寺院(皇族・貴族の子弟が代々住持となる別格寺院のこと)であり、青蓮院、三千院(梶井門跡)、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、天台五門跡の1つに数えられる。国宝の黄不動画像や曼殊院本古今和歌集をはじめ、多くの文化財を有する。近畿三十六不動尊第十七番。


歴史
起源
他の天台門跡寺院と同様、最澄(767-822)の時代に比叡山上に草創された坊(小寺院)がその起源とされる。その後、12世紀頃に北山(現在の京都市右京区・鹿苑寺付近)に本拠を移し、洛中(現在の京都市上京区・相国寺付近)への移転を経て、現在地に移転したのは明暦2年(1656年)のことである。

寺伝では延暦年間(782-806)、伝教大師最澄が比叡山上に営んだ一坊がその起源とされる。円仁、安恵らを経て、10世紀後半の僧である是算の時、比叡山三塔のうちの西塔北谷に移り、東尾坊(とうびぼう)と称したという。最澄、円仁、安恵・・というのは天台宗の法脈を表わすもので、曼殊院の歴史は実質的には是算の時代から始まるといえる。是算の事績についてはあまり明らかでないが、花山法皇(968-1008)の弟子であったという。

曼殊院と北野天神
曼殊院は平安時代以来、近世末期に至るまで北野神社(現・北野天満宮)と関係が深く、歴代の曼殊院門主は北野神社の別当(責任者)を兼ねていた。通説では、曼殊院初代門主の是算が菅原氏の出身であったことから、菅原道真を祭神とする神社である北野神社の創建(天暦元年・947年)に際し別当に任命されたという。なお、是算の別当任命については、北野神社創建時ではなく、寛弘元年(1004年)、一条天皇の北野神社行幸時のこととする別説もある。北野神社の創建年とされる天暦元年(947年)と是算の没年である寛仁2年(1018年)の間には70年もの開きがあることを勘案すれば、寛弘元年(1004年)任命説の方に妥当性があると言えよう。

天仁年間(1108-1110)、是算から数えて8代目の門主・忠尋の時に、北野神社からさほど遠くない北山(現・京都市右京区)に別院を建て、寺号を「曼殊院」と改めた。別院を建設したのは、北野神社の管理の便のためと思われる。比叡山にある本坊と北山の別院とはしばらくの間、並立していたが、次第に北山の別院が主体となっていった。

狸谷不動院を参拝後に9時近くなったので、詩仙堂に行きました。
このお庭はししおどしの音といい非常に落ち着くお庭でついついゆっくりしてしまいました。
紅葉もまだ一部だけでしたが、それでもなかなか良かったです。

京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-詩仙堂


詩仙堂


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詩仙堂

所在地 京都府京都市左京区一乗寺門口町27
位置 北緯35度2分37.39秒
東経135度47分46.06秒
山号 六六山
宗派 曹洞宗
創建年 寛永18年(1641年)
開基 石川丈山
正式名 六六山 詩仙堂 丈山寺 凹凸窠

詩仙堂の添水詩仙堂(しせんどう)は、京都市左京区にある、江戸時代初期の文人石川丈山の山荘跡。国の史跡に指定されている。現在は曹洞宗の寺院でもあり丈山寺という。

概要
名称の由来
詩仙堂は徳川家の家臣であった石川丈山が隠居のため造営した山荘である。名前の由来は、中国の詩家36人の肖像を掲げた詩仙の間による。 詩仙は日本の三十六歌仙にならい林羅山の意見をもとめながら漢晋唐宋の各時代から選ばれた。肖像は狩野探幽によって描かれ詩仙の間の四方の壁に掲げられている。

詩仙堂は正確には凹凸窠(おうとつか)という。凹凸窠とはでこぼこの土地に建てられた住居の意味であり、建物や庭園は山の斜面に沿って作られている。 丈山は詩仙の間を含め建物や庭の10個の要素を凹凸窠十境と見立てた。

建築・庭園
寛永18年(1641年)、丈山59歳の時に造営され、丈山は寛文12年(1672年)、90歳で没するまでここで詩歌三昧の生活を送った。

「小有洞」という門をくぐり、竹林の中の道を行くと、石段の上に「老梅関」という門があり、その先に詩仙堂の玄関がある。玄関上は3階建の「嘯月楼」となっており、その右手(西側)には瓦敷の仏間と六畳、八畳の座敷、左手には四畳半の「詩仙の間」、「読書の間」など多くの部屋がある。このうち嘯月楼と詩仙の間の部分のみが丈山当時の建築で、他は後世の改築である。

庭園造りの名手でもある丈山自身により設計された庭は四季折々に楽しむことができ、特に春(5月下旬)のサツキと秋(11月下旬)の紅葉が有名で観光客で賑わう。縁の前に大きく枝を広げた白い山茶花も見所のひとつ。一般にししおどしとして知られる、添水(そうず)と呼ばれる仕掛けにより時折り響く音は、鹿や猪の進入を防ぐという実用性とともに静寂な庭のアクセントになっており丈山も好んだという。

圓光寺の座禅会のあと、まだ8時前でしたが、近くの狸谷不動院を参拝しました。
まだ朝早かったのでほとんどだれもいませんでしたが、ほどなくぽつりぽつりと参拝の方が増えてきました。
長い石段を運動のために登ってこられる近所のお年寄りも多いみたいです。


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-狸谷不動院



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狸谷不動院 〒606-8156 京都市左京区一乗寺松原町6 075-722-0025
境内無料 駐車場150台
ご本尊「不動明王」は平安京の城郭東北隅に鬼門守護として、桓武天皇勅願により祭祀されたもので、以来、タヌキ(咤怒鬼)不動明王として、悪鬼退散の霊験著しく、鎌倉時代建長年間(1249)に洞窟に安置され、公家殿上人をはじめ、都人の尊崇の的であった。
 慶長九年(1604)には、剣豪宮本武蔵が、滝に打たれて、修業を続け、己に克つ不動心を感得し、享保三年(1718)には、木食上人正禅が、現内陣で、(洞窟を改修)、17年間参籠し、菩提心の開発に努め、狸谷修験者の先駆となる。
 その後、修業場として各地から、参籠篭が馳せ参じたが、世の変遷と、為政者の干渉などあり、明治の廃仏毀釈には、あたら霊仏が草深く埋もれると云う、歎わしい事態となり、次第に荒廃したのである。
 明治の後期に至り、郷土の有志が集まり、由緒あるご霊仏の再現を強く願い、山を伐り道を拡げて、信心の針路を打ち立てたのである。かくして、昭和19年(1944)請われて、大僧正亮栄和尚が入山、「修験道大本山一乗寺狸谷山不動院」として寺法を制定、狸谷山開山第一世貫主として、自ら宗派を超えた寺院を再興したのである。時あたかも人心の低迷した戦後、勇気と活力を与え給うご本尊のご威徳は、愈々遍満し、祈りある者、必ず救われるの霊験宣布により、"タヌキダニのお不動さん"の御名が天下に響きわたり、関西隋一信仰霊場として、大躍進が続けられたのである。ご本尊の大威神力は、帰依する者の左右を離れず、衆生の願いに随って利益を与え給うの本誓を発揮して、縦横無尽に衆生を済度するのである。

円光寺の座禅会に参加しました。
自宅を3時45分に出て、5時45分に着きました。
丁度2時間かかりました、詩仙堂までは迷わずきましたが、暗くて曲がる道がわからず狸谷不動院まで行ってしまったので10~15分ほどロスしました。
座禅は初心者ですが、難しいです。人間の体からはいろいろ音が出るもんですね。
とても「心を落ち着かせ、大自然と調和し、一体になること」なんてできません。
座禅会自体は座禅と粥座(お茶、茶菓子と朝粥の食事)と法話がセットになっており、初心者でも楽しくできました。
そのあと、丁寧にお寺の案内もいただきありがたかったです。

円光寺は紅葉でも有名ですが、何本かは紅葉しておりなかなか見ごたえがありました。

京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-円光寺


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再来週ぐらいには庭一面が真っ赤になりそうとのことでした、去年よりは早くなりそうとのことです。


円光寺
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この項目では、京都府市左京区の円光寺について記述しています。その他の用法については「円光寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
円光寺

手水鉢と水琴窟
所在地 京都府京都市左京区一乗寺小谷町13
位置 北緯35度2分42.32秒
東経135度47分49.33秒
山号 瑞巌山(ずいがんさん)
宗派 臨済宗南禅寺派
本尊 千手観音
創建年 慶長6年(1601年)
開基 徳川家康、三要元桔閑室(開山)
文化財 紙本墨画竹図・絹本着色元佶和尚像・伏見版木活字52,320個(重要文化財)
表・話・編・歴
円光寺(えんこうじ)は、京都市左京区一乗寺にある臨済宗南禅寺派の寺院。山号は瑞巌山(ずいがんさん)、開山は三要元佶(閑室)、開基(創立者)は徳川家康。

十牛の庭と呼ばれる庭園には洛北で最も古いと言われる栖龍池(せいりゅうち)と水琴窟がある。秋は紅葉の名所となり、夜間ライトアップも行われていたが、2008年以降は休止となっている。

歴史
家康の命により慶長6年(1601年)に足利学校の第9代の学頭であった閑室を招き伏見に円光寺学校を建立したことに始まる。その後、相国寺内に移りさらに寛文7年(1667年)に現在地に移された。

文化財
円光寺学校では僧以外の入学も許可し、「孔子家語」(こうしけご)「貞観政要」(じょうかんせいよう、貞観参照)などの多数の書物を刊行した。これらの書物は伏見版、あるいは円光寺版と呼ばれ、そのとき使用された木製の活字が保存されている。その数は約5万個にのぼり日本最古の活字であり重要文化財となっている。

他に本尊の千手観音像や開山像、円山応挙作の竹林図屏風などがある。

境内奥の山には、家康を祀った東照宮がある。

重要文化財
紙本墨画竹図 六曲屏風一双 円山応挙筆
絹本着色元佶和尚像 自賛あり
伏見版木活字 52,320個

犬山成田山です。
千葉県成田市の大本山成田山新勝寺の別院で正式には成田山名古屋別院大聖寺です。
このお寺は高台にあるので犬山城からもよく見えますし、犬山城もよく見えます。


京都日記 世界遺産・ときどき名古屋-犬山成田山


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成田山名古屋別院大聖寺
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成田山名古屋別院大聖寺(なりたさんなごやべついんだいしょうじ)とは、愛知県犬山市にある、真言宗智山派の寺院である。通称「犬山成田山」。千葉県成田市にある成田山新勝寺の別院である。創建は、1953年(昭和28年)。開山に際しては、名古屋鉄道およびそのグループ会社が中心となって寄進した。他にも、松坂屋を初めとする中部の財界のバックアップを得た。本尊は不動明王。所在地は、犬山市犬山北白山平5。