豊国神社の目の前にある耳塚にもよってみました。
小さな公園(耳塚公園)に隣接して、ありました。

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この塚は、豊臣秀吉が朝鮮侵略したいわゆる文禄慶長の役(朝鮮では、壬辰・丁酉の倭乱、1592~1598年)にかかる遺跡です。
秀吉の命により、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ塩漬にして日本に持ち帰り、この地に埋められ、供養が営まれた。これが伝えられる「耳塚」のはじまりです。

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最初は首の代わりに鼻をそぎ落として持って帰ったので、鼻塚と言われていたようですが、残虐すぎるということで耳塚と呼ばれるようになったということです。

秀吉からは「皆殺し」の命が出されて戦闘員だけでは無く、非戦闘員の赤ん坊から老人にいたるまで虐殺され、鼻をそいで運ばれたようです。

歴史上、虐殺行為はたくさん有り、けして日本だけに限ったことではありませんが、この朝鮮侵略が世界史上の日本の汚点の一つだということはまちがいないでしょうね。

豊国神社の隣の方広寺も参拝しました。


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方広寺も豊臣秀吉ゆかりのお寺と言うか、太閤様が建立した京都で一番の広大なお寺だったみたいです。
奈良の大仏様より巨大な高さ18~19mの大仏様もあり、もし今でも現存していたら物凄い観光資源だったでしょうね。
でも京都でそんな事を言ったらお寺だらけでしょうけど。
今では豊国神社の一部かなと思うくらい、ひっそりとした小さなお寺でした。

あの有名な豊臣家滅亡の口実とされた「国家安康の鐘」は巨大な鐘楼でした。


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ただ、知恩院の巨大な鐘楼を見てきた後ですが、巨大さでは知恩院の方が勝っていました。
鐘楼の天井画はところどころ消えかかったところもありますが、豊臣家の栄華がしのばれます。

本堂である、大黒天堂を拝観してみました。大人は200円でしたが、あばさん(おばあちゃん?)が着いて丁寧に説明をしてくれるシステムでした。
ただ、おばさん(おばあちゃん?)一人しかいないので、前の参拝者に説明していると誰もいなくなるので、入り口でかなり待たされました。まあ、参拝者も少ないのでできるシステムですね。

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でも説明は丁寧でよくわかる説明で良かったです。


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小さなお堂ですが、大黒天はもちろんですが、左甚五郎作の欄間の龍もあったりかなり拝観しがいがありました。200円ならかなりお勧めです。


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写真も自由に撮っていいですよと言っていただけましたし、説明の後は自由に拝観でき良かったです。


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方広寺

所在地 京都府京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527-2
位置 北緯34度59分31.58秒
東経135度46分19.43秒
宗派 天台宗山門派
本尊 大日如来
創建年 文禄4年(1595年)
開基 豊臣秀吉
文化財 梵鐘(重要文化財)
石塁・石塔(史跡)

方広寺(ほうこうじ)は、京都市東山区にある天台宗の寺院。

沿革
方広寺は天台宗山門派の寺で豊臣秀吉により建立された。大日如来、大黒天を祀る。天正14年(1586年)、秀吉により奈良・東大寺に倣った大仏殿の造営が開始され、文禄4年(1595年)に完成した。東大寺の大仏より大きい18mの大きさであったという。また釘などは刀狩で没収した武器の再利用されたものも使われた。しかし慶長元年(1596年)に地震により倒壊した。

その後豊臣秀頼により再建されたが、寛政10年(1798年)に落雷による火災で焼失した後は同様の規模のものは再建されなかった(大仏および大仏殿の建造と焼失の経緯は「京の大仏」の記事を参照)。

豊臣氏当時ものとしては梵鐘が残っているが、この鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文(京都南禅寺の禅僧文英清韓の作)が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものと看做され、大坂の役による豊臣家滅亡を招いたとされる。この鐘は重要文化財に指定されており東大寺、知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされる。

大仏殿は2000年の発掘調査により東西約55m、南北約90mの規模であったことが判明している。現在その場所は公園となっている。

宝物など
国家安康の鐘
慶長19年(1614年)に京都三条釜座の名古屋三昌により鋳造された。大きさは高さ4.2m、外形2.8m、厚さ0.27m、重さは82.7トンである。前述の銘は撞座の左上にある。

本尊盧舎那仏坐像
江戸時代の天保年間、焼失した旧大仏を模した1/10の木造半身像(肩より上、頭部のみ)が寄進されたが、昭和48年(1973年)に失火による火災により焼失した。大仏は台座の一部などが現存する。大仏殿の遺物としては他に柱の金輪、屋根の軒先に吊されていた風鐸が残されている。

大黒天像
桓武天皇の勅命により最澄(伝教大師)が延暦寺を建立するため比叡登山中のお告げにより彫刻されたと伝えられるものである。さらにその像を秀吉が気に入り1/10サイズで作らせ手元に置いたとされる小さい像ととも大黒天堂に安置されている。


ハプスブルク展の後、京都国立博物館の隣の豊国神社を参拝しました。

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国宝の唐門が見事です。

本当に立派ですね。
この唐門は豊臣秀吉が築城した伏見城の門であり、桃山文化の栄華を今に伝える豪壮雄大な国宝門なんですね。
徳川家もこの門は破壊しなかった訳はなんだったんでしょうか。


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参拝したとき、丁度結婚式が行われていました。

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豊国神社

所在地 京都市東山区大和大路正面茶屋町530
位置 北緯34度59分29秒
東経135度46分21秒
主祭神 豊臣秀吉公
社格等 別格官幣社・別表神社
創建 1599年(慶長4年)
例祭 9月18日

拝殿と本殿(奥)豊国神社(とよくにじんじゃ)は、京都市東山区に鎮座する神社。豊臣秀吉を祀る。

主祭神が大名として統治した地である大阪市の大阪城公園(中央区)や滋賀県長浜市、石川県金沢市のほか、出身地の名古屋市中村区にも豊臣秀吉を祀る同名の神社がある(関連項目を参照)。

歴史 [編集]
豊臣秀吉の死去の翌年の1599年(慶長4年)、遺体が遺命により方広寺の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立されたのに始まる。後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われた。しかし、1615年(元和元年)に豊臣宗家が滅亡すると、徳川幕府により神号が廃され、社領は没収、社殿は朽ちるままにされ、神体は新日吉神社にひそかに移し祀られた。

1868年(明治元年)、明治天皇が大阪に行幸したとき、豊臣秀吉を、天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告した。1873年(明治6年)、別格官幣社に列格した。1880年(明治13年)、方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、遷座が行われた。


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京都国立博物館のハプスブルク展に向かいました。


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土曜日でしたが、外の行列は10分待ちとの表示で思ったほどは混んではいませんでした。


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展示の内容は明治天皇が皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に友好のしるしとして贈った画帖の100枚の絵とハプスブルク家ゆかりの絵画と工芸の至宝、約120件の展示というかなりのボリュームに圧倒されるほどでした。

その中でも、私が気に入ったのはエル・グレコの「受胎告知」とベラスケスの傑作「皇太子フェリペ・プロスペロ」と「白衣の王女マルガリータ・テレサ」、フランツ・クサファー・ヴィンターハルターの「オーストリア皇妃エリザベート」というひときわ人気のある4点です。

エル・グレコの「受胎告知」はあの独特の異様さには圧倒されます。


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エル・グレコの「受胎告知」は、ほぼ同構図で同寸で3点あり、日本の倉敷の大原美術館と今回のブダペスト国立西洋美術館蔵と、アメリカのトレド美術館所がそれぞれ蔵作していますが、一度3点を同時に観て見たいです。(1986年に国立西洋美術館で開催されたエル・グレコ展で、この3点が揃って紹介されたそうです。)

ベラスケスの「皇太子フェリペ・プロスペロ」と「白衣の王女マルガリータ・テレサ」も素晴らしかったです。


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特に「皇太子フェリペ・プロスペロ」はハプスブルク家の血族結婚の犠牲者なんでしょうね。その命のはかなさが表れているように思えました。

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「オーストリア皇妃エリザベート」はやはりその美しさに感激しました。


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知恩院の次に、京都市東山区にある真言宗智山派総本山の智積院へ寄ってみました。


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このお寺は長谷川等伯・久蔵父子の作の大書院障壁画25面が有名です。
2月23日から東京国立博物館で長谷川等伯没後400年特別展が開かれるので国宝の「楓図壁貼付(かえでずかべはりつけ)」」「松に秋草図」は貸し出しされていました。
東京の次は京都国立博物館で4月10日から始まりますから、当分は戻らないのでしょうね。

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梅園の梅の花もちらほら咲き初めていました。


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<総本山智積院のHPより>
 鎌倉時代の中頃に、頼瑜(らいゆ)僧正が出て、高野山から大伝法院を根来山へ移しました。
 これにより、根来山は、学問の面でもおおいに栄え、最盛時には、2900もの坊舎*1と、約6000人の学僧を擁するようになります。智積院は、その数多く建てられた塔頭(たっちゅう)寺院のなかの学頭寺院*2でした。

 しかし、同時に、巨大な勢力をもつに至ったため、豊臣秀吉と対立することとなり、天正13年(1585)、秀吉の軍勢により、根来山内の堂塔のほとんどが灰燼に帰してしまいました。その時、智積院の住職であった玄宥(げんゆう)僧正は、難を京都に逃れ、苦心のすえ、豊臣秀吉が亡くなった慶長3年(1598)に、智積院の再興の第一歩を洛北にしるしました。

 そして慶長6年(1601)、徳川家康公の恩命により、玄宥僧正に東山の豊国神社境内の坊舎と土地が与えられ、名実ともに智積院が再興されました。その後、秀吉公が夭折した棄丸の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺を拝領し、さらに境内伽藍が拡充されました。再興された智積院の正式の名称は、「五百佛山(いおぶさん)根来寺智積院」といいます。

 こうして智積院は、弘法大師から脈々と伝わってきた真言教学の正統な学風を伝える寺院となるとともに、江戸時代前期には運敞(うんしょう)僧正が宗学をきわめ、智山教学を確立しました。こうして、智積院は学侶が多く集まるようになり、学山智山と称され多くの学僧を生み出しました。

知恩院の三門の冬の特別公開に行ってきました。


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そんなに早く行くつもりはなかったのですが、早く目が覚めたのでいつもより早く自宅を出ました。
名古屋の自宅を6時30分に出て、知恩院三門前の駐車場に着いたのがちょうど8時30分でぴったり2時間かかりました。
三門の特別公開は10時からなので、ゆっくり知恩院の境内を参拝しました。

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今回は下から御廟所の一番上の方までゆっくりと拝観しました。


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上の方からは京都市内が一望でき絶景です。


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この眺望や鶯張りの廊下といい、知恩院が徳川家の京都の押さえとして二条城とともに重要な拠点となっていたという噂もなんとなく頷けます。
二条城と地下通路で結ばれているなんて噂もあるみたいですが、どうなんでしょうか、徳川家であればやれないこともないかもと思ったりもしますが。
七不思議に「白木の棺」がありますが、秀忠の命により三門を造営した大工の棟梁夫婦が予算オーバーの責任を取って自害したと言われています、これも知恩院の秘密も守るためのものだったと考えるとへんに納得できたりします。


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1時間半以上ゆっくり境内を拝観しました、それでもまだまだ時間が足りないくらいでしたが、三門の拝観時間を過ぎていたので山門に向かいました。

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二階内部は入り口が黒いカーテンで塞がれており、かなり暗くなっていました。ガイドの方の説明もありなかなか見ごたえがありました。


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ただ驚いたのは落書きの多さです。
明治の廃仏毀釈の際に三門も一時放置状態になり、壁の極彩色の美しい絵の上に全国から来た参拝者が記念にと住所と名前をいたずら書きしてありました。
もう100年以上前のいたずら書きですが、国宝に指定される前のものですので今となっては消すこともできませんと、ガイドの方も笑っておられました。
手の届く範囲でいたるところに、全国の住所と名前が本当におびただしい数のイタズラ書きでした。
ちょっと恥ずかしさと悲しい気持ちになりました。


<知恩院のHPより>
元和7年(1621)、徳川二代将軍秀忠公によって建立されたもので、高さ24メートル、横幅50メートル、屋根瓦約7万枚。その構造・規模において、わが国現存の木造建築として最大の二重門です。

上層部(楼上)内部は、仏堂となっており、中央に釈迦牟尼仏像、脇壇には十六羅漢像が安置されているほか、天井や柱、壁などに天女や飛龍が極彩色で描かれていて、荘厳な雰囲気を備えています。

また、七不思議の一つである白木の棺があり、三門を建立した棟梁、五味金右衛門(ごみきんえもん)夫妻の木像が安置されています。
楼上内部は通常は非公開ですが、特別公開の際には、七不思議のひとつ白木の棺や、天井から柱まで全体に施された華麗な極彩色の荘厳を目にしていただくことができます。

日曜日に大龍寺という黄檗宗のお寺を参拝しました。
このお寺は日泰寺の霊園のすぐそばにあるお寺ですが、車で行こうとしたら大変でした。
細い道を入っていくと一方通行や階段があったりと、ナビで行こうとして1時間近く悪戦苦闘しましたが、たどり着けませんでした。
結局、日泰寺の霊園の無料駐車場にとめて歩いていったら2~3分で着きました。

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このお寺は五百羅漢が有名です。
地元では「らかんさん」としたしまれているそうです。


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五百羅漢とは釈迦の弟子で阿羅漢となって随従した500人の聖者のことで名前も事蹟も明らかではありません。
中国で古くから釈迦の信仰と並んで五百羅漢の宗拝が盛んで、それが日本に渡来して五百羅漢の造像や崇拝が行われるようになったそうです。

残念ながら、五百羅漢は拝観することはできませんでした。


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五百羅漢堂は、名古屋城・築城時の犠牲者を供養するため、1780年より5年かけて造られた回遊式の羅漢堂であり、五百羅漢を回遊できるような仕組みが施されています。

しかも想像できないほどの複雑な建築で、参拝者は本堂から一度も同じ通路を通らずに、五百羅漢を回遊し元の本堂に戻って来るという。また、もう一つ別ルートも用意されている。迷宮のような複雑な曲がり・高低・暗さで異界のような不思議な感覚に浸されるといいます。

祖父江の善光寺さんの後に、岐阜県の海津にある「おちょぼさん」へよってみました。
海津には5~6年前に海津温泉に入りに良くきていました。
100円で入れる町営の温泉でしたが、いつの間にか市になっていたんですね。
温泉は塩分と鉄分が豊富で黄金色に濁った温泉でしたが、かなりいい温泉で何度も足を運びました。
最近はまったく行ってないですが、リニューアルしてきれいになったみたいです。

千代保稲荷神社は今回初めて参拝しました。
田んぼの中を走っていくと、鳥居がちっらと見えて大きな駐車場があったので、駐車場に入っていくと駐車料金300円を請求されて良くわからないまま払いました。
参道にはかなりの人が出ていました。

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日本三代稲荷と言われることがあるそうですが、神社自体は伏見稲荷や豊川稲荷と比べるとちょっと比べ物にはならないくらいこじんまりとしています。
でも、夕方近いのに参拝客はかなりいましたし、参道の商店街や屋台の数はかなり多くて驚きました。

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今回は時間がなくて寄ることはできませんでしたが、今度はおちょぼさんと海津温泉とでゆっくり過ごしてみたいです。




千代保稲荷神社
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千代保稲荷神社
拝殿(2006年5月)
所在地 岐阜県海津市平田町三郷1980
位置 北緯35度15分48.7秒
東経136度38分47.8秒
主祭神 大祖大神、稲荷大神、祖神
創建 平安時代

千代保稲荷神社(ちよぼいなりじんじゃ)は、岐阜県海津市平田町三郷1980にある稲荷神社である。京都の伏見稲荷、愛知の豊川稲荷とともに、日本三大稲荷の一つともいわれている。地元の岐阜県西濃地方など中京地方ではお千代保稲荷(おちょぼいなり)と呼ばれることが多く、通称「おちょぼさん」として親しまれている。

由来
平安時代、源八幡太郎義家の六男の義隆が分家する際、森の姓をもらいうけ、義家より「先祖の御霊を千代に保て」と祖神と共に宝剣と義家の肖像画を受け賜わったのが始まりと伝えられる。千代保稲荷神社の名も、この言葉からきている。

後に室町時代の文明年間(1469年~1486年)、子孫の森八海がこの地に祖神を祀ったのが開祖となり、現在は19代目という。

特徴
祭神は大祖大神、稲荷大神、祖神。

商売繁盛、縁結び、合格祈願などにご利益がある。 伏見稲荷や豊川稲荷と比べるとかなり小規模だが、年間250万人が参拝している。特に正月三ヶ日や月末月始の月並祭、15日は大変混雑する。商売繁盛の神社という特色上、同じ西濃地方の南宮大社などに比べ、税理士などの専門職も含め自営業者の参拝が多い。

「先祖の御霊を千代に保て」という教えより、現在でも境内ではお札やお守り等は一切出していない。ただし角柱形の御神籤箱によるおみくじは置かれている。お供えとしては、稲藁で結んだ油揚げと蝋燭が使用される。

門前町
約110店が軒を連ねる。境内ではお札やお守り等は一切出していないため、この門前町には縁起物を扱う店が多い。また、名物としては草餅、川魚料理(鰻・鯰・モロコの甘露煮・鮒味噌など)、串カツと土手煮、漬物等がある。

交通
名神高速道路大垣インターチェンジより南東方向へ車で約15分。

最寄の公共交通機関は非常に少ない。しいて挙げるのなら、

岐阜羽島駅より、海津市営バス海津羽島線に乗車。お千代保稲荷前バス停下車。
名鉄岐阜駅より、名古屋鉄道竹鼻線羽島市役所前駅下車。羽島市コミュニティバス南部線(名鉄竹鼻線廃止区間代替バス)に乗り換えて大須下車。さらに広域バス (羽島市・海津市)お千代保稲荷線に乗り換えて千代保稲荷前バス停下車。
養老鉄道で駒野駅下車。駅よりタクシーで約10分。
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ほかの方のブログでこの祖父江善光寺を拝見して、さっそく参拝に出かけました。
かなり大きなお堂ですが、まさに長野の善光寺の本堂だけをそのまま持ってきたような感じです。
長野の善光寺は広い境内の中にたくさんの伽藍がありますが、祖父江善光寺は巨大な本堂のみが突然、住宅街に現れたというような感じです。
それはそれで面白いです。

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このお寺は300円で戒壇巡りができます。
最初は真っ暗でまったく何も見えませんが、手探りで進むにつれ、かどを曲がると真っ暗闇の中にかすかな光が見えてきます。
その光の先に極楽が見えてきて、なかなか楽しい趣向になっていました。


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善光寺東海別院
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善光寺東海別院(ぜんこうじとうかいべついん)は、愛知県稲沢市祖父江町にある単立の仏教寺院である。正式には双蓮山善光寺(そうれんざんぜんこうじ)という。また長野県長野市にある信州善光寺をはじめとする各地の善光寺との区別のため祖父江善光寺(そぶえぜんこうじ)、尾張善光寺(おわりぜんこうじ)とも呼ばれている。

由緒
1910年(明治43年)に創建。

戒壇めぐり
善光寺といえば戒壇めぐり(かいだんめぐり)が有名だが、善光寺東海別院の戒壇めぐりは、暗闇で発光する「お守り」を右手首にはめて入る。信州善光寺のような真っ暗ではなく、一部明るくなっており「極楽世界の様子」が立体的に安置してある『極楽かいだんめぐり』である。

善光寺同時開帳
2003年(平成15年)春、長野県長野市の善光寺、長野県飯田市の元善光寺、山梨県甲府市の甲斐善光寺、愛知県稲沢市の善光寺東海別院で同時に御開帳が行われた。善光寺東海別院には期間中(56日間)21万人の参拝客でにぎわった。
2009年(平成21年)春、2003年の四善光寺に加え、岐阜県関市の関善光寺、岐阜県岐阜市の岐阜善光寺で同時に御開帳が行われた。創立百周年にあたる善光寺東海別院のみ「百日御開帳」で、23万人が訪れた。

交通アクセス
自動車利用の場合、名神高速道路は岐阜羽島インターチェンジから、東名阪自動車道は弥富インターチェンジからが近い。 鉄道の場合、東海旅客鉄道(JR東海)東海道新幹線の岐阜羽島駅から、名古屋鉄道は名鉄尾西線(びさいせん)の森上駅からが近くて便利である。

土曜日に自宅から車で20分ぐらいの密蔵院へ行ってみました。
ヤマダ電機やジャスコの守山店の近くで庄内川を渡って春日井市に入ったすぐのところにあります。
ヤマダ電機やジャスコにたまに行っていますが、このお寺は知りませんでした。

細い道路を入っていくとお寺の裏手に広い駐車場がありました。


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一時はかなり栄えたお寺で最盛期は山内に36坊を持ち、末寺も700寺近くあり、3,000名以上の学問僧もいたみたいですが、現在そのなごりは多宝塔ぐらいとなっています。


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多宝塔はかなり見ごたえがあり、すばらしい塔です。


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密蔵院

本堂
所在地 愛知県春日井市熊野町
山号 醫王山
宗派 天台宗
本尊 薬師如来
創建年 1328年(嘉暦3年)
開基 慈妙上人
正式名 醫王山薬師寺密蔵院
札所等 中部四十九薬師霊場第30番
文化財

木造薬師如来立像
多宝塔(国の重要文化財)

絹本著色兜率天曼荼羅
絹本著天台大師像
絹本著千手観音菩薩像
銅製仁王像
木造十一面観音立像ほか
(県指定)

密蔵院(みつぞういん)は、愛知県春日井市熊野町にある天台宗の寺院。山号は醫王山。本尊は薬師如来。中部四十九薬師霊場第30番札所。


歴史
1328年(嘉暦3年)、美濃御嵩より訪れた慈妙により開創された。尾張の天台仏教の中心地として栄えた小牧市の正福寺の衰退を受け、以降尾張地方に於ける天台宗の中心地(中本寺格)となる。永享末年(1441年)前後に最盛期を迎え、末寺は尾張・美濃を中心に11カ国・700ヶ所、塔頭は36坊にものぼり、七堂伽藍も備わって葉上流の伝法灌頂の道場として重きをなした。当時の学徒は3,000人を超えたとされる。

しかし戦国時代になると織田信長が延暦寺と敵対した影響で衰退し、末寺は約100寺、塔頭も16坊となった。その後、葉上流31世の珍祐が元和元年(1615年)に密蔵院に移って七堂を再興し、さらに名古屋城三の丸に東照宮ができると別当になるなど、再建に力をふるった。葉上流の灌室を有して僧侶に位を授ける寺であるため檀家を持たず、このため明治以降は維持が困難になった。明治24年(1891年)の濃尾地震では本堂、仁王門、灌頂堂が倒壊するなどし、1932年の時点では常泉坊のみとなった。1950年には春日井市内の大留町に移転し、現在に至る。


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