泉涌寺の次に今回の1番の目的である本家鳥初さんに向かいました。
御池通地下駐車場に車を止めましたが、集合時間までまだ時間があったので、鳥初さんのすぐ隣にある本能寺を参拝しました。
寺町通りに面した門をくぐると、周りをビルやホテルに囲まれた空間に本堂が建っています。
繁華街のお寺ですが、境内は雨のせいもあるのか思わぬ静寂さに包まれていました。
ただ、残念なのは本堂が修理中なのか、周りをぐるりと工事用の塀で覆われて本堂の参拝はできませんでした。本能寺の変があった場所からは移転していますが、信長公廟はしっかりとお参りしました。
本能寺は5回も焼失しているみたいで、そのため能の字の書き方が変わっているそうです。
<本能寺跡>石碑に書かれている言葉(全文)
応永22年(1415)御開山日隆聖人は、本門八品の正義を弘通せんがため、油小路高辻と五条坊門の間に一寺を建立して「本応寺」と号されたが、後に破却されたので、永享(えいきょう)元年(1429)小袖屋宗句の外護により町端に再建、次いで永享5年(1433)如意王丸の発願により、六角大宮に広大な寺地を得て移転再建、本門八品能弘の大霊場として「本能寺」と改称された。
その後、天文5年(1536)天文法乱によって焼失、天文14年(1545)第八世伏見宮日承王上人によって旧地より四条西洞院のこの地に移転、壮大なる堂宇の再興をみた。しかるに天正10年(1582)かの「本能寺の変」によって織田信長とともに炎上、天正17年(1589)この地に再建せんとし、上棟式の当日、豊臣秀吉より鴨川村(現在の寺町御池)の地に移転を命ぜられる。一山の大衆声を放って号涙すと。
ちなみに「本能寺」は度々火災に罹りたるをもって、能の右側の「ヒヒ」(火)と重なるを忌み、火難から去る意を込めて「去」と書くのが慣わしである。
























































































