<富山県>~2016年冬、北陸新幹線初乗車で薬都・富山へ(2日目②・富山市民俗民芸村) | 花咲く旅路

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「呉羽山公園」から、    桜の広場展望台    へ。

 

 

 

 

「呉羽山公園展望台」から少しくだったところにあります。
 この展望台からは、「北陸新幹線」の高架をより近くから見ることができ、

反対側からは遠くに富山湾も望むことができます。

「桜の広場」というだけあって、4月には美しい桜を見ることもできます。

 

 

 

 

 

 

 

仏像が建っていました。

 

 

 

 

 

尾山三郎之銅像

 

公選初代富山市長。

 

 

 

 

 

眺望。

やはり素晴らしい。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金刀比羅宮   が鎮座していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

巨大な石。

何の石なのかな!?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長慶寺  五百羅漢     へ。

 

 

 

 

圧巻の羅漢像。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いろいろな石碑も建ちます。                

 

 

 

「長慶寺」は、もともと「新川郡塩野」に所在した真言宗の寺院でしたが、

1786年、「日輪禅師」により「曹洞宗」の寺院として開山しました。

所在が現在の土地に移ったのは、「河上屋市郎左衛門」の勧請によるものです。

本尊は「桜谷大仏」と呼ばれる大仏でしたが、1870年(明治3年)頃、

富山藩の命により失われ、現在は仏頭のみが鎮座しています

 

境内裏にある「五百羅漢」は江戸時代の後期、信仰心の篤い富山の回船問屋の豪商

「黒牧屋善次郎」が1799年、発願者となり、50余年にわたり佐渡の石工に

535体の石仏を彫らせ、「北前船」で運んできたものになります。

 一体一体の間に 石燈籠をはさんでおり、各尊像は、

坐像、立像と変化に富みながらも高さが統一されています。
その穏やかな表情は訪れる人の心を和ませています。

 

 

 

 

 

賓頭盧尊者           舎利佛尊者

 

 

 

 

 

本堂

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからの眺望も素晴らしいです。

 

 

 

 

ちょうど「北陸新幹線」が来ました!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つづいては、    富山市民俗民芸村      へ。

 

「富山市民俗民芸村」は「呉羽山」の麓に広がる歴史と文化の里です。

7つの博物館と2つの施設が集まっています。

遺跡出土品などを展示する「考古資料館」、

生活用具や仕事用具などを展示する「民俗資料館」、

富山売薬の歴史を伝える「売薬資料館」、

民衆的工芸品を展示する「民芸館」、

合掌造りを移築した「民芸合掌館」、

庶民の陶磁器を展示する「陶芸館」、

郷土の水墨画家の「篁牛人記念美術館」。

 

まら「茶室円山庵」や「陶芸館」や「とやま土人形工房」もあります。
1965年(昭和40年)に「民芸館」が開館して以来、順次3施設を開設していきました。

富山市政90周年を迎えた1979年(昭和54年)の「富山市考古資料館」の

開館に合わせて、記念としてこの地を「民俗民芸村」と名付けました。

その後も3施設と管理棟を開設、市政100周年の1989年(平成元年)には記念に

「篁牛人記念美術館」を開設、1991年(平成3年)には無料休憩所の設置、

1993年(平成5年)月には、「とやま土人形工房」を開設しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

茶室 円山庵

 

 

富山の茶人「金子宗峰」が、1920年(大正9年)に建築した、

茶室「録寿庵」で、戦後 現在地に移築したものです。
1981年(昭和56年)に「円山庵」として開館しました。

広さ約35坪、木造平屋建て数寄屋造り瓦葺きの趣向を凝らした建物です。

 

 

 

 

 

 

 

 

とやま土人形工房        信行寺

 

 

「とやま土人形工房」

1993年(平成5年)「民俗民芸村管理センター」に併設する形で完成し開館。

富山藩10代藩主「前田利保」が、1848年~1854年の「嘉永年間」に、

尾張の陶工「加藤家」の陶器職人であった「広瀬秀信」を「富山」に呼び、

「千歳御殿」に窯を築いて「千歳窯」を作り、次いでその子「安次郎」が陶器作りのかたわら

「天神臥牛」を焼いて献上したのが「とやま土人形」の始まりです。

当時、城下には「土人形屋」は数軒ありましたが、「広瀬家」より技法を学んだ「渡辺家」

だけが家業として伝統を守り続けてきました。

工房は、保存伝承と紹介を目的に開設し、「とやま土人形伝承会」が運営にあたっています。

建物は正面が総ガラス張りの鉄筋コンクリート造りの2階建てで、

1階は土人形の紹介及び販売コーナー、2階が制作工房となっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

富山市考古資料館

「富山市」は3,000m級の山岳部から海岸部まで多様な地勢を有し、

市内には約1,050ヶ所の遺跡が知られています。

市内の遺跡で発掘された出土品を展示、保管する施設として、

1979年(昭和54年)に開館しました。

 

 

 

旧石器時代から江戸時代までの出土品を時代の流れに沿って展示し、

地域独自の文化の歩みが学べるようになっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 水橋金広・中馬場遺跡出土双六盤    パン爺

    

 

「水橋金広・中馬場遺跡出土双六盤」

「富山市水橋」の「上条地区」を流れる「白岩川」中流右岸にある遺で、

古墳時代と鎌倉時代から江戸時代前期を中心に営まれた集落、館跡です。
1999年(平成11年)に行われた発掘調査で、

安土桃山時代の館の施設とみられる遺構から、「双六盤」が出土しました。

現在の「すごろく」は、さいころを振って出た数だけ進み、

先にゴール(あがり)した人が勝ちというゲームで、「絵双六」と呼ばれています。
昔の「すごろく」は「盤双六」と呼ばれ、四角い盤のうえで二人で対戦するゲームでした。

白黒それぞれの駒をさいころの出た目の数だけ進め、

相手の陣地に先に全ての駒を送りこんだ方が勝ちなど、5種類ほどの遊び方が知られています。
 出土した「双六盤」は厚板状で、本体はケヤキを使用しており、

盤の収縮を和らげるための埋木はクロベが用いられています。

盤面には罫線が明瞭に引かれています。

駒石を盤に置くときの音響効果をねらって、

底部中央には台形に削り出した「ヘソ」が付いています。
このような双六盤は、「鳥獣戯画」「石山寺縁起」といった絵画に描かれており

存在は知られていましたが、実際に厚板状の盤が完形品で出土したのは全国でもはじめてです。
出土した盤には使用した痕跡も認められ、館に住む武将達が双六に興じていたと考えられます。


「パン爺」

「考古資料館」のキャラクターです。

頭部は富山市内の遺跡から出土した、平安時代の人面墨書土器をモチーフにした、

仙人のようなキャラクターで、2014年(平成26年)の、

「ミュージアム キャラクター アワード 2014」では第3位になりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「考古資料館」の向かいには、

佐々成政剃髪碑   がありました。

 

1585年(天正13年)8月、「豊臣秀吉」に降伏を申し出た「佐々成政」は、

「秀吉」に服従の意を示すため髪を剃り墨染めの法衣を身にまとい、

僧侶の姿で「秀吉」の軍使と会見したとされています。

この時、この「安養坊」地内の草むらにて髪を剃ったと伝えられます。

その故事に由来して、この地が道心山(仏門入門の山)と呼ばれるようになった、

といわれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく~)