<新潟県>~おっさん3人冬の旅・2日目②(新発田散策) | 花咲く旅路

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「胎内市」の古刹「乙宝寺」を拝観した後は、

 

お隣の「新発田市」へ移動します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

30分ほどでやってきたのは、   新発田城     です。

 

城のまわりは    新発田城趾公園    になっています。

 

 

 

 

 

「新発田城」は、「新発田川」が形成した砂礫土層の三角洲の上に位置します。

北には「加治川」が流れ、深い沼沢に挟まれた低湿地にあり近づきにくい構造です。

日本海に近く、城下町が繁栄する基盤もありました。

もともとは、「上杉氏」の家臣である、「新発田重家」の居城でした。

「重家」はやがて、「上杉謙信」の跡を継いだ「景勝」に反旗を翻し対立するようになります。

1587年、「上杉」の軍勢に囲まれた「新発田城」はとうとう落城し、

「重家」は自刃して果てました。
 その後、この地は「上杉氏」の支配下に置かれましたが、

1598年、「豊臣秀吉」の命により6万石を与えられて、「溝口秀勝」が入封しました。

「秀勝」は「新発田重家」の館跡に「新発田城」の築城を始め、

入封から56年の月日を経て、1654年、3代「宣直」の時に、

「新発田城」は完成をみたのでした。

「新発田城」には「新発田藩」の藩庁が置かれ、「溝口氏」が12代にわたって統治しました。

「明治維新」を迎えると「廃藩置県」を経て1872年(明治5年)には、

城内にあった櫓や門の大半が取り壊され、堀も埋め立てられてしまいました。

現在残っているのは、表門、旧二の丸隅櫓、本丸石垣などです。
「新発田城」は、「本丸」の形が舟のように見えることから”舟形城”と呼ばれたり、

周囲の湿地に「菖蒲」がたくさん咲いていたことから”菖蒲城”とも呼ばれていました。
石垣が隙間なくかみ合うようにきちんと積まれる「切込はぎ」と呼ばれる

美観を重視した技法でつくられ、白と黒が美しい海鼠壁で仕上げられています。

本丸、二の丸、三の丸からなり、堀や石垣に囲まれ、「新発田川」の水を巡らせた平城で、

11棟の櫓と5棟の門が並び壮観な景観を呈していました。

中でも、「天守閣」の代わりを果たしていたのが「三階櫓」です。

3匹の鯱を配するという独特の櫓で、全国にも例がない大変珍しいものです。

2004年(平成16年)には、この三階櫓、辰巳櫓が復元されました。

「新発田城」の城郭跡の大部分は日本軍解体まで陸軍が置かれていたこともあり、

現在も陸上自衛隊の駐屯地となっています。

そのため、建物の内部を観覧できるものは、二の丸隅櫓、本丸表門、辰巳櫓になります。

自衛隊の敷地内にある三階櫓の内部は公開されていません。

 

 

 

なんと、このお城、4月~11月までが開門されて城跡内が観光できます。

行ったのは1月なので、城門がかたく閉ざされておりました。。。

雪国あるあるですかね、残念ショボーン

 

 

 

 

 

本丸表門

 

「表門」は2階建ての櫓門で、北国ならではの海鼠壁が採用されています。

1732年の再建と伝わります。

櫓の2階には石落しが設けられ、攻め手に対し横矢がかけられるように

門は石垣より引っ込んだ場所に作られています。

 

 

 

 

 

 

中には入れないので、「新発田城趾公園」からお城の外観を見学します。

 

雨が降り続いています。

全然人はいません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

辰巳櫓

 

「本丸」から見て南東(辰巳)の方角にありました。

古文書等の史料に基づき、三階櫓とともに忠実に復元されています。

本造の二層二階櫓で、入母屋造、本瓦葺きです。
かつて、赤穂義士「堀部安兵衛」の父が管理責任者で、

櫓の焼失の責任をとって浪人となりました。

その後、「安兵衛」は、家名再興のため江戸に出て、高田馬場の敵討によって名を遂げました。

 

 

 

 

 

 

 

旧二の丸隅櫓

 

 

 

 

1668年の大火後の建築です。

もともと「二の丸」にありましたが、昭和に入って「本丸」の鉄砲櫓の跡に移築されました。

切込接の石垣と海鼠壁が美しく、「表門」とともに国の重要文化財に指定されています。

 

 

 

 

 

 

 

三階櫓

 

「天守」はなく、「本丸」の北西隅に三重櫓を上げて「三階櫓」と呼んでいました。

幕府に遠慮し「天守」を公称しませんでしたが、

「三階櫓」は、「新発田城」における実質的な「天守」でした。

1654年に創建されたものは、1668年の火災により焼失、

現在復元されている姿のものは1679年に再建されたものになります。

三階櫓の各階の壁にも海鼠壁が採用されており、

最上階のT字型の屋根には3匹の鯱が載っています。

 

 

 

 

 

 

 

土橋門跡

 

 

「本丸」を囲む帯曲輪の南西に位置しました。

この「土橋門」と「帯曲輪」、「本丸」の「表門」、「鉄砲櫓」により、

櫓を併用した枡形門に等しい防御機能を持たせていました。

1644年以前に造られ、1668年の大火で焼失しましたが、

1700年までには再建されたと考えられます。

 

 

 

 

 

 

 

堀部安兵衛武庸銅像

 

新発田出身の赤穂義士討入の四十七士のひとり。

城の表門前に、すっと立っています。

像の顔は、しっかりと江戸を見つめています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「新発田城」の外観を眺め、町の中心、「新発田駅」の方へ向かいます。

 

 

 

 

 

雪国らしいアーケードですね~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新発田藩3代藩主「溝口宣直」の時代、この地の「高徳寺」を「五十公野」へ移した跡地に

藩の下屋敷の造営が始まりました。

付近が   清水谷  と呼ばれていたことから、「清水谷御殿」と呼ばれました。

その地にある日本庭園を観光します。

 

 

清水が湧きだすことから「清水谷」と呼ばれています。
「新発田」の井戸水は鉄分が多すぎて飲み水には向かず、

「新発田川」の水を飲用水として利用していました。
「清水谷」の井戸は、飲用水として使えるきれいな水が

こんこんと湧き出る名水として知られていました。

 

 

 

 

 

 

「清水園」には日本庭園の他、「旧石黒家住宅」や、「旧足軽長屋」、

郷土資料館などがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まずは、     旧石黒家住宅     へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この建物は、以前「新発田城三の丸」の近く、

「八軒町」にあった「石黒門三郎」の居宅を移築復元したものです。

江戸時代後期の中級武士の標準的な居宅として20坪余ですが、

座敷と日常生活の部分に分けられており、

当時の武士の生活をしのぶことができる基調な遺構です。

日本庭園「清水園」の構内にあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

旧足軽長屋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

 

「清水園」の東側を流れる「新発田川」をへだてた路すじに「足軽長屋」はあります。

「旧足軽長屋」は江戸時代後期に建てられた「新発田藩」の下級武士の住宅で、

桁行き24間、梁間3間半を8戸区切、正面に1間分のこけら葺の下屋庇が付いています。
建物は寄棟、茅葺、内部は6畳間が2部屋と囲炉裏付の板の間が1部屋、

1畳の玄関、2坪の台所と簡素な間取りで、床の間や式台付の玄関など、

一般的な武家屋敷で見られるような接客的空間がなく、

構造や意匠的にも質素なものを採用しています。

開口部も限られていた事から採光や通風も悪く、

生活環境も一般的な武家屋敷よりも低いとされます。
以前は「北長屋三軒割八住居」として同様な長屋が4棟あったとされますが、

現在はこの1棟だけが残されています。

主な住民は足軽やそれ以下の武士で8名中1名しか姓が名乗れず、

「御門番組」、「御年寄組」、「御網方」などの役職を担っていました。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

旧武庸橋の欄干

 

「家老門」前に架けられた橋「旧武庸橋」は、「堀部安兵衛武庸」に因んで命名された橋です。
保存してあった「旧武庸橋の欄干柱」を使用した橋が、

2013年(平成25年)に移築されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく~)