<新潟県>~おっさん3人冬の旅・1日目⑤(鮭の町・村上散策) | 花咲く旅路

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「イヨボヤ会館」を観覧して、つづいては「鮭公園」を散策します。

 

 

 

 

 

 

 

 

鮭公園     は、中央の芝生広場を囲むように植えられた花木、

公園を一望できるあずまや、楽しく遊べる遊具、錦鯉が泳ぐ大きな池など、

四季を感じながら楽しめる憩いの公園です。
「三面川」の分流「種川」に隣接しており、

園内の「青砥武平治像」は鮭が遡上する「三面川」河口を向いて建立されました。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

青砥武平治像

 

 

天気が悪いのが残念です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「三面川」沿いへ。              

 

 

 

 

 

 

 

三面川中州公園

 

 

国の「ふるさとの川モデル事業」で、

「三面川」の河川敷を利用して造られた緑豊かな公園です。

「三面川」沿いに、約1kmにわたって敷地があります。

外周約2kmのコースがあり、ウォーキングやジョギングなど運動をしている人の姿も多く、

市民に親しまれています。
一見河川敷ですが、鮭の産卵のために作られた、

「三面川」の分流である「種川」に挟まれているため、

「中州公園」と名付けられています。

多目的芝生広場やバーベキュー施設、観光茶畑などがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川沿いから住宅街に戻り、「村上城跡」に向かって歩きます。

 

 

 

 

このあたりは、   加賀町    です。

「庄内町」東北端にあった桝形から橋を経て西に延びる町です。

西端は「塩町」に接っします。

「村上惣町並銘々軒付之帳」には見えませんが、村上雑記には記載があり、

1649年~1667年までの間に町立てされたことが分かります。

寺社旧例記によれば、1705年の家数29軒、1818年~1830年の「文政年間」の

絵図家業附では、31軒半、竈数69とのこと。

木挽き職、大工が多かったようです。

 

 

 

 

 

 

 

「加賀町」の   稲荷神社    には、

松尾芭蕉句碑    が建っていました。

 

 

 

 

 

”雲折々 人をやすむる 月見かな”

この句は芭蕉七部集「春の日」にあり、1685年の作とされています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

秋葉神社

 

 

このあたりは    久保多町    です。

藩主「堀氏」の時代の城下絵図に「窪田町」と見え、町並み北側には馬場が描かれています。

1632年、「堀直竒」の兜守り馬頭観世音菩薩を本尊として

「観音堂」が建てられましたが、後に「塩町」に移されました。

1712年の竈数は124。

1721年の大火を経て、従前の「久保田町」を「久保多町」と改め、

1768年、「観音堂」跡地に「遠州」から「秋葉神社」を勧請しました。

現在、「秋葉神社」の参道に立つ「大欅」は、

「馬場先観音堂」が建てられていた当時の樹です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まいづる公園

 

 

 

 

 

「皇太子殿下」、「雅子妃殿下」(現在の天皇、皇后)の御成婚を記念した公園です。

南東方向に「舞鶴城跡(村上城跡)」をのぞみ、公園内には「雅子妃殿下」ゆかりの

「旧嵩岡家住宅」のほか、「旧岩間家」を移築復原しています。

村上藩士の生活文化を展する重要な歴史文化施設としても意義深い公園です。

 

 

 

 

 

 

横並びで趣のある住宅が建ちます。

 

 

 

 

 

 

旧嵩岡家住宅

 

 

 

 

 

江戸時代後期に建てられた住宅。

「嵩岡家」は「村上藩」では中級武士にあたり、1781年~1789年の「天明年間」には

江戸藩邸詰を勤めるなど代々100石を給していた家柄です。

1787年に「村上藩」で編纂された「分限帳」では「平侍百石嵩岡泰蔵」、

1868年(明治元年)に編纂された「村上藩士族名寄帳」では

「給人百石嵩岡小太郎」と記載されています。

もとは、現在の村上市新町にあり、直屋、寄棟造りの住宅で、

1996年(平成8年)に現在地に移築復原されました。

この建物は、玄関を入るとすぐに茶の間があり、隣に主人の接客と居室を兼ねた座敷を備え、

接客と居住空間の明確な区別がありません。

また、上屋の梁間が二間半ということから、隣接する「旧岩間家住宅」と比較すると

茅葺き屋根が大きく見えるのが特徴です。

1993年(平成5年)、「皇太子殿下」と「小和田雅子様」の御成婚を記念しての

記念公園整備事業が1994年(平成6年)より計画着手されましたが、

「嵩岡家」が「小和田家」と縁戚関係にあることから、この記念公園整備事業の目玉として

「旧嵩岡家住宅」の復原が行われることとなりました。

そして、この御成婚を記念した公園内には、この「旧嵩岡家住宅」のほか、

「旧岩間家住宅」、さらには「旧藤井家住宅」の3棟の武家屋敷が

復原されることとなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

旧岩間家住宅

 

 

 

 

 

「足軽」など比較的石高が低い武士が住んだ一軒の建物を数世帯分に間仕切りされた形式の

「長屋形式」だった建物を1858年に一戸建の「須貝勝太郎」の屋敷として

建て替えられたもので、1948年(昭和23年)に「岩間氏」が取得しました。

長屋だった頃の名残が現在でも随所にあり、

間仕切易いように梁間が2間と狭く建物背後下屋根は個建てにする時に増築したようです。
木造平屋建て、寄棟、茅葺、直屋形式、面積109㎡、外壁は真壁造、土壁鏝押え、

腰壁は素木縦板張、内部は式台付玄関、取次の間(和室4.5帖)、居間(和室6帖)、

次の間(和室6帖)、座敷(和室8帖、床の間、囲炉裏付)、茶の間(和室6帖、囲炉裏付)、台所などが配されました。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まいづる公園」に隣接する、     善龍寺

 

創立は1639年、開基は「秀円和尚」。

もとは「仲間町」にありましたが、城主「堀直竒」が、

その場所を「茶屋」にするため、現在地に移したと伝えられています。

現在の本堂は1786年の「天明の飢饉」の際、

檀頭「宮川屋彦次郎」が生活困窮者を救済するため、私財を投げ出して建てたものです。

 越後村上大工の「板垣伊兵衛」によって彫られた欄間や向拝の龍の彫刻が特徴的です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「善龍寺」と並んで建つ、    専念寺

 

 

 

 

創建は1621年、京都「知恩院」の末寺です。

本尊は「阿弥陀如来」で脇侍は「観音菩薩」と「勢至菩薩」。

開山の「呑徹上人」は豊臣家臣「新田源左衛門尉貞経」の五男です。

京都の「法然院」で修業し、その後、江戸に出て「伝通院」や「増上寺」で学んだ僧です。

1649年、「松平直矩」が「姫路」より「村上城主」として入封、

その後、菩提寺となりました。

寺を再建して鐘楼を建立、荘厳を整え、京の仏師が彫った「千躰佛」を奉祀しましたが、

1876年(明治9年)年の火災でわずかを残して焼失しました。

現存するのはその後の作で、身丈6尺の「地蔵菩薩」とともに祀られています。
本堂前にある「阿弥陀如来石像」は、九品仏の下品中生仏になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

旧成田家住宅

 

 

 

 

 

 

 

 

現在の村上市新町にあります。

ここには、江戸時代の「内藤氏治」政世下においては旧武家町に属し、

村上城本丸に通じる「下渡門」の近くで、比較的中級武士の住宅が集中していたところです。

何度か家主が変わり1854年に書かれた佐賀藩士「牟田高惇」の日記や、

1868年(明治元年)に描かれた「村上城」の城下絵図から、

「岡本左太夫」が住んでいたことがわかっています。

住宅の構造形式は、直屋、寄棟造、茅葺であり、典型的な村上の武家住宅の形式であると

いえますが、玄関の位置については、現存しているほとんどの武家住宅が平入りの玄関である

のに対して、妻入りの玄関であることが大きな特徴になります。

幕末から明治にかけて主構造を残しながら間取りなど大幅な改修をしたと考えられています。







 

 

 

 

 

 

目の前に「村上城跡」が近づいてきました。  村上城跡保存育英会

 

 

「村上城跡保存育英会」

「村上城跡」を保存し、市民の憩いの森林公園として、

山林の維持管理を行うことを 主事業としています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく~)