”ジェンダーフリー”というのは本来、文化的性差にこだわらない個人の生き方があってもよいという考え方のはずです。
つまり…家事育児ができない、したくない女性がいても…いいよね?…って話で…
それならば…
稼がない男がいても、女性におごったりしない男がいても…いいよね?…って話でもあるはずです。
が…
実際の”ジェンダーフリー”は、そうした個人の尊重や多様性とは、まったく別物の矛盾に満ちた思想です。
そして、実際には「男女の区別をしない」というところが突出しており、
人間の尊厳である”性”そのものを否定しにかかっている非人権的な思想です。
もっといえば、「女性のオッサン化」と「男性のギャル化」を目指す優生政策になっているのです。
ブタでは、いずれクローンが脚光を浴びてくるでしょうが、人間も自前で家族や一族を作らず、個別単位で飼育し、売買できる家畜のような存在になることが求められていると思われます。
こうした動きは、明治の”瓦解”当初からありました。
いまでも、英語教育やら、サマータイムやら、欧米に媚び諂う連中が手先になって日本への文化侵略を続けているのです。
帝国主義というのは、自分たちのやり方が「文明的」だなどと称して、そのやりかたを相手に強要する流儀のことです。
「オレ流」を相手に押し付けて、相手がしたがわないと「野蛮」と称し、
したがえば、「自分はお前にいいことをした(文明化してやった)」などとほざくわけです。
個人にも、こういういけ好かない勘違い野郎がよくいますが…
こうした頭のネジの緩んだことを、欧米も日本も、ずっと大威張りでやり続けているのです。
こうした潮流に対し、いわゆる「共産党」や「進歩主義者」ではなく、
「保守」を名乗っている連中が、その侵略の尖兵を務めてきているのですから穏やかではありません。
しかも、連中は、異を唱えると「抵抗勢力」などと称して弾圧してきますし、
その侵略を「改革」だなどと言っているのです。
グローバリゼーションは、世界的な潮流であり、現実ではありましょう。
反グローバリズムの時代を迎えたとしても、人類史を通覧すれば世界はグローバル化に向かっていると思われます。
しかし、そうだとしても、それならばなおさら戦略的で意識的でなければならず、迎合的で非主体的であるのはマズイでしょう。
すでに人々は、何を得る代わりに何を失ったかという自覚を失っています。
スマホだのクラウドだの、”便利”なものをあてがわれて、それに疑問も覚えず依存していっています。
『サピエンス全史』でユバルは、人類は自分の使う道具について熟知していたが、現代ではそうではないと述べております。
古代人類の方が、現代人より遥かに物知りで、生きた知識をもっていたということです。
科学の進んだと言われる現代は?…
おそらく、近代科学(現代科学ではない!)の水準すら、8割9割の国民は理解していないでしょう。
しかも、核だのAIだの、ナノテクノロジーだのと、ますます自分たちの手に負えないものを作って、それに依存する生活に踏み込んでいっています。
ユバルは、麦の栽培が始まったことで、人々は麦の奴隷になったと言いました。
それ以前より、長い時間、不自然な姿勢で、はたらかなければならなくなったと。
そして現在、それは繰り返されようとしています。
我々は、核の奴隷、AIの奴隷、クラウドやスマホやナノテク、DNA工学の奴隷となりつつあるのです。
ユバルは、そこで問うていました。
みなさん、それで幸せですか?…と…
一番大事なことが、問われていないのです。