”個人主義”を理解できない「”自分”がない」民族 | バカ国民帝国日本の滅亡◇FooL JAPAN!◇日本人人間化計画

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【著作権フリー・人はだれの所有物(奴隷)でもありません。身も心も、著作物も所有物ではありません。所有し、支配してはならないものです。】幸徳秋水死刑100年の怨念、乃木希典自刃100年の無念を引き継ぐ”呪い”のブログ…

フェイスブックの発展の仕方には、日米で大きな違いがあるという。


濱野智史氏が、2011年に『エコノミスト』に寄せた記事から援用すると…



「実名のもとにあらゆる情報や行動履歴を共有する」という理念を掲げたフェイスブックが米国で受け入れられてきた背景には、米国が独立した個人で形成された”個人主義社会”だということがある。


さまざまな人種や宗教が混在する社会では、個人として向き合わねばいけない場面が多い。


また、雇用の流動性が高く、不確実な環境でもよりよい交渉や協働のための相手を探そうとすればフェイスブックのようなサービスは利用価値が大きい。



これに対して日本は「集団主義」を基本とする社会だ。


個人として動くことは少なく、社会人ならば組織や会社の肩書が先にくる。


場面ごとに「空気を読む」ことが求められる。



終身雇用型で流動性が乏しいため、どうしても組織に縛られる傾向が強くなる。



掲示板サイトの”2ちゃんねる”がまさにそうで、ときには集団でだれかを誹謗中傷するサイトが拡大するのは、日本が巨大な「内輪空間≒世間」を主体にした社会だからだ。



招待制SNSが日本で流行ったのは、この反動で、匿名で危険なイメージの強かった当時のウェブ空間から逃避するための、いわばコクーン(繭)として受け入れられた。


そして、そのなかでは友人同士の日記交換といった小さな「内輪」のつながりに基づくコミュニケーションがとられてきた。



このような日本のウェブ環境は、米国のような電子公共圏を理想とする人々の目には否定的に映る。


ブログジャーナリズムやSNSの政治活動への利用ということに困難が伴うからだ。



それがフェイスブックの登場で「日本も実名主義になる」と期待する人々もいた。


だが、歴史をみれば、情報技術が現代社会を変えるということはなかった。


社会のありようこそがウェブ環境を決定するのである。



したがって、「フェイスブックが日本社会を変える」ことを期待するのではなく…


自分たちが日本社会を変えるためにフェイスブックをどう使っていくのかということの方が重要だ。




(゙ `∇´)/ まあ、こんな感じの記事でした。


アメリカは、フリーメーソンが作った人工国家…ゆえに、”独立した個人”が前提になっています。



( ̄^ ̄)b しかし、日本では”ムラ”、”群れ”中心で”自分”というものが存在しません。



( ̄∩ ̄# 犬やサルの集団とまったく同じで…


だれがボスで、自分の序列が何番目かがすべての世界です。



群れにおいて、ボスが法律であり、その命令は絶対なのです。



犬だって、自分で信号を判断して道路を渡ることはほとんどありません。


飼い主の動向に犬は全神経を集中して、それにしたがうのです。



ですから、畜生民族、日本の”社会”において正しいことをしようと思っても、ボスが間違っていてもそれを否定してはいけませんので、それにしたがわなければならないのですwwww



日本では、メンツ、序列が、善悪に優先するのです。


”礼儀”や”しきたり”が、合理的判断に優先するのです。



日本では、”自分の考え”というものをもつことができません。


そんなものをもっていれば、しょっちゅう「自分はボス」「自分の序列は上」と自惚れている言葉の通じない日本人畜生どもと摩擦を起こしていなければなりません。



まったく…それだけでくたびれてしまいます…



こんな民族はいない方がいい…



ですから、私はもう原発には反対していません。


どうぞどうぞお好きなようにwwww




日本人が、人間に進化しさえすれば、そんなものは自然に止まるでしょう。



小室直樹が完璧な法律論をやっていながら、法の精神、個人主義を理解しなかったのも、


日本民族が法ではなく、(ボスの)命令にしたがう畜生国家だったからなのでしょうか?



小室直樹ほどの秀才が、そんなはずはない…


というのであれば、もっと恐ろしい仮説が成り立ちます。



彼らは、賢明なるがゆえに、この国のアンタッチャブルな闇の部分に触れないように、アノミー論などの妄想を駆使して、真実真相を誤魔化したのだと…


ジョージ・オーウェルの「1984年」にでてくる”白黒”、”二重思考”です


ふとみると…武田邦彦教授のブログも、惨いことになっているようですが?…www



大学教授という仕事も、所詮、電波芸者の延長に過ぎない日本においては…


彼らより、乞食や博徒の方がよほど人間としてマトモで、立派ではないのかと思う次第です。


しかし、人のことはどうでもいいです…



”お偉いさん”が、日本ではこの程度だというのに、庶民は呑気なものです。


なんだかんだいって、まだまだ”余裕”があるのでしょうね~




政治の話をしても、「政治家にならないの?」みたいな言葉が帰ってくる。


(おまえが、個人として自分で考えるべきことがあるだろ~~!!)むかっ



日本人の「集団主義」とは、「和の精神」などとは縁もゆかりもない…全体主義人格のことである…

ボスに忠実、規則や命令に忠実な…権力に忠実な、飼いならされた家畜としての国民…

日本人にこそ参政権は不要!

そもそも使ってないし…使えてないし…



庶民が庶民として、すなわち主権者として、何をせねばならないかということがまるでわかっていない。



テレビのタレントの芸をみるように人の話を聞き…クチをきく…


「話」はするだけ…「考える」ことはない…「調べる」「学ぶ」こともない…



まるで噂話、世間話の範疇を越えず、感情の吐露と”悪者”探しで盛り上がるだけ


要は、「酒の肴」にするだけ、”消費”するだけなのが日本人なのである。



”テレビ脳”、”ゲーム脳”に”思考”は不可能なのかもしれない。



主権者としての自覚がない。


およそ”個人としての自覚”すら、畜生人生では育たないわけだから、仕方がないのだろう。