小室直樹は、何を間違えたのか | バカ国民帝国日本の滅亡◇FooL JAPAN!◇日本人人間化計画

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【著作権フリー・人はだれの所有物(奴隷)でもありません。身も心も、著作物も所有物ではありません。所有し、支配してはならないものです。】幸徳秋水死刑100年の怨念、乃木希典自刃100年の無念を引き継ぐ”呪い”のブログ…

刑法や刑事訴訟法は、国民を縛るものではなく、裁判官や検察を縛るためのもの…


つまり、法律も憲法同様に、個人ではなく「リバイアサン」たる国家権力を縛るためのものだ…



…そういう議論をしておきながら、小室直樹は…


法律は、だれかのだれかに対する命令で、個人に対する命令もある…みたいな話をし…



法律は守っても守らなくてもいいものではなく、確実に実行されるべきもので、ゆえに死刑が確定すれば法務大臣は法に則って直ちに執行すべきである…



…みたいなことを述べていた。



しかし、これはいわゆる”保守論客”ってやつらの限界で、完全な間違いである。



「日本人は、法の精神、社会契約が全然わかっていない」などと言っておきながら…


小室自身が全く理解していなかったことを示す発言だ。



先に証明しておこう。


社会契約というのは、「人間は自由な存在」ということを前提にしている。



「人間は自由」ということの意味は…


「人間はだれの”所有物”でもない」


…ということであり…


「だれの命令にも従わない」「したがう義務などない」


…という意味であり…


したがって…


「人間は自由意思をもつ」


…という話になるのだ。



したがって、いかなる法律も、”個人に対する命令”にはなりえない


法治国家(社会契約国家)では、そうなる。


なれば、それ自体が”違法”であり、”人権の侵害”となる。



”命令”とは、早い話、”強要”、”強制”である。



”命令”は絶対という…


野蛮な日本民族の考え方から、小室は脱することができなかった…



つまり、所詮「99%」のなかの秀才だったにすぎず、「5%」ではなかった。



だから、宗教も理解できず、仏教とキリスト教が別の教えに見え、社会契約国家がキリスト教なしでは理解できないなどと述べ、「アノミー論」などを展開し、日本の言論を混乱させてしまった。


(まあしかし…この人は”功罪”の”功”の部分も多いので、それはまた紹介していこうと思う)



いずれにせよ、あそこまでの議論をしておいて、本質に気づかないというのでは…


これも、”認知の歪み”なのだろうか????



社会契約の”法の精神”というのは…


”約束”は守る



…なのである。



「”命令”は守る」という思想とは、根本的に違うのである。



「”約束”は守る」というのは、古今東西に共通の普遍的な道徳だ。


それとも、キリスト教国家だけの道徳なのだろうか?



『史記』には、戦に勝った桓公が、魯国と和議を結ぶ際に魯の将軍に脅されて不本意な内容の誓約書に署名する羽目になったときの話がある。


これを破棄して再度攻め込もうとする桓公に名宰相管仲が「一時の感情に溺れなさるな」とたしなめた。


「桓公は、不本意に交わした約束でも違えない」ということが、評判になり、次々と同盟国が現れた。



諸葛孔明の話でも、魏が攻めてきたときに約束どおり兵士を交代させようとしたとある。



これらが史実かどうかはさておき、このような話が美談として語り継がれているというところに、東洋にも「”約束”は守る」という道徳があったことが明らかである。


もっとも日本では、「公約は膏薬」とばかり、政治家が約束を破っても平気な国民性である。


こういう性情は、スペインなどのラテン民族にもみられるらしいのだが…www



しかし、「約束は、破ってもいい」と考えている日本人を、国際社会は「異質」とみなしている。


イギリスも、約束を守らないが、とりあえずは外交において、すなわち、異教徒や異国に対してというわけである。有権者や顧客に対してウソをついても許される、カネさえくれれば…という日本とは違うだろう。




そもそも…”法律”は、”命令”ではない。



それは、強制力を発動させるときの”根拠”である。


娼婦に身を落としたファンティーヌを微罪で法律どおりに懲役にかけようとする警察署長ジャベールに対して、市長となったジャンバルジャンが法を発動し、釈放させる一幕が『レミゼラブル』にもある。


死刑判決が出たとしても法務大臣は、職権で止めることも「悪い」ことではない。



法には、上位法があり、それと矛盾する場合の下位法は無効である。



また、「将、外にあれば、君命も受けざるところあり」とも中国で言われている。



博学のはずの小室氏が、なぜこういう史実に無知であったのか?…


それが、やはり”認知の歪み”というものであろう。




約束が守られないとき、初めて法が発動され、”命令”が執行される。


それも消極原則、比例原則、目標限定原則に則って発動される。



日本でも、警察庁の周りだというのに、駐車違反をまったく取り締まらないところがある。


普段は、必要がないからで…


苦情がきたり、状況が悪化したり、必要が生じたときに取り締まるのである。




また、欧州では、制限速度などは交通状況に応じて定めるようになっており、また、赤信号で渡っても安全確認がなされていれば必ずしも”違法”とはならない。




思考停止の野蛮民族である日本人は「規則は規則」と考えがちだが、規則に従う方が理不尽なケースは

いくらでもある。



世界的には…


「規則は規則」「命令は絶対」と考えている日本人の方こそ”異質”なのである。



日本人は、そういう世界に通用しない「自分たちだけの正義」に耽溺して突っ走りやすい。



欧米人が、日本を”神秘”、”脅威”とみるのは、そういう畜生レベルの国民なのに経済大国になったり、いくつもの発明をしたりしているからであるwww(どの民族にも「5%」はいるからw)


そこを日本人は、しばしば”勘違い”しているのだ。




話をもとに戻そう。


法律とは何か…



それは強制力を発動するときの基準や根拠となるものであり、「”強制力”を縛る」ものである。



日本人は、この根本常識からまず身につけなばならない。


こんなこともわかっていないで一人前ヅラしていることこそが恥なのだ。



ついでにいえば、強制力発動の際は、書類が作られ、当事者の署名、捺印がなされる。


これも”契約”のかたちを踏襲している。



「この強制力の発動に、あなたも”合意”しましたよね?」という体裁を極力整えようとする。



「これは、勝手に出された命令ではない」という証明は君主国家でも必要である。



君主国家でも、家臣が勝手な命令をしないようにということで、法は家臣を縛る。


それが、社会契約国家でも発展的に踏襲されているわけである。