いま、あなたが”あるもの”を取りに行ってほしいと頼まれたとしよう…
それで”どこに”、”何を”取りに行けばいいのかを尋ねたところ、単に…
「あそこへ行って、あれを取ってきてほしい」と言われたときどうするか?…
”あそこ”、”あれ”じゃ、何にもわからない…
「”あそこ”に”あれ”はあったかい?なかったかい?」と聞かれても答えようがない。
この依頼を果たすには、”あそこ”、”あれ”が何を意味するのか知らされていなければならない。
あるものが「ある」のか、「ない」のかを判断するには、その”あるもの”が定義されている必要がある。
存在論…「ある」とはどういうことか、「ない」とはどういうことか…と…
認識論…「知る」とはどういうことか、「知らない」とはどういうことか…は、哲学の初歩…
ここでつまづいているようでは話にならないので、10年かかろうが20年かかろうが考え続けて会得してもらいたい…
こんな原理もわからないで、参政権を与えられるなどとは”特権”も甚だしい…
それくらい重要な課題なのである。
エラそうなクチをきいて絡んでくる連中というのは、まずここで落ちこぼれている…
自分が無知であることがわからないから、エラそうなクチがきける…
こいつらの確認法は、手近の連中にああだこうだと話を振って「うん、そうだね」みたいに同意や共感を得て自信をつけるやりかたである。
「みんなと同じ」「賛同者がいる」となれば「自分は正しい」と信じるわけである。
だが、悲しいかな、バカと話が合うのはバカどもである…
バカどもに賛同してもらったから「みんな言ってるから」と、「自分は正しい」と信じるとは愚の骨頂である。
しかし…そういう連中ばっかりなんだよね~…(-""-;)…
さて、そこで話を先に進めるが…
ものが「ある」か「ない」かを判断するには、予めそれを我々は知っている必要があり、その対象が定義されている必要がある…
…ということは…
神様がいるかいないかなどということも判断できるはずがないのである。
どういうわけだか、「いる」「いない」と確信をもって信じている人がいるのだが…
だいたいは無責任な連中なのである…
「神様を知っている人」は、どこにおられるのでしょう?
「神様」とは、どのように定義されるものなのでしょう?
もしも万物をおつくりになった方がおられたとすれば、我々はその方を定義できるのでしょうか?
その方を知ることができるのでしょうか?
「全知全能の神」などという…
だったらなぜ不完全な被造物をつくったのであろうか?
失敗作を作り上げる創造神が”全知全能”なわけがあるまい…
もしも「全知全能の神」が、「万物を創造した」のだとすれば、一切は完全であり、一切は救われているのである。
だいたい「全知全能」ってどういうことなのか?…その意味すら定義は不可能である…
おおよそ「神」というのは、「人間にない者を持つ者」とイメージされているので…
「全知全能の神」というのは、けっきょくは「無知無能の人間」と言うべきところを、そのように表現しているだけだとも考えられる…
「無知無能の人間」…まことにそのとおりと思うのだが、しかし、そう決め打ちしてみると今度は…
「人間というのは本当に”無知無能”なのか?(けっこうやるじゃん?)」という問いが出てくる…
およそ人間ほど、この地球上で”全知全能の神”のように振る舞っている生物もいまい…
…してみると…そもそも「全知全能」だの「無知無能」だのに意味があるのかということになってくる。
同じ人間が、ときに「全知全能」であり、ときに「無知無能」なのであるから…
「全知全能」といえば、とてつもなくスゴイって感じがするし…
「無知無能」といえば、やたら情けないって感じがするが…
同じ人間がときに「全知全能」ときに「無知無能」なんだから、「全知全能」と「無知無能」に大差はない…
要するに「気分の問題」でしかないのである。
だから、「全知全能の神」を信じるということは、「無知無能の神」を信じることと変わらない。
そして、「無知無能の神」なら、何の”作為”もしないであろう…
「神様はいる」と言おうが、「神様はいない」と言おうが、所詮は”ことばのあや”でしかない。
「いる」「いない」自体よりも、何を”神様”と考えるかという方が、重要であろう…
さて、それでキリスト教では、イエス・キリストを「神」としているが、イスラム教では”預言者のひとり”でしかない。
そもそもアッラー以外に”神”はなく、その”神”を人間は知りようがなく、語りようもない…
イスラムでは、「神」の定義が他とちがうと言えるだろう…
「一神教」「多神教」という”くくり”では、この辺りを理解することはできないだろう…
だいたい「一神教、多神教」の議論では、「神様の数」を数えている…
「数えられるもの」が「神様」なのだろうか?
「唯一絶対神」などと言おうが「神はひとり」のように数を数えているかぎり、多神教の延長である。
「一神教」というのは、「多神教」のように数えられるものを一切「神」とはみなさない…
つまり、「多神教」は、「神ではないもの」を「神様」として祀り上げて”信心”しているのであって、およそ”宗教”の名に値しない…
それは、アミニズムや呪術、オカルトの類であって、占いやまじないを信じることをもって「宗教」だの「信仰」だのと言っているに等しい。
別にそうしたまじないを信じるのもけっこうだが、それでは「神を信じ」ているのでもなければ、「宗教」を信仰ているわけでもない…”無宗教”、”不信心”の類である。
要するに、「一神教と多神教」というのは、「神様の数」が問われているのでなく、何を「神」、何を「宗教」と定義するかという辺りの問題なのである。
よって、「多神教」の感覚からすれば、「一神教」は、神様自体を否定している宗教ということになる。
「神様」を祀らない、拝まない宗教で、しかし、何かことばが必要なので「アッラー」と呼んでいるだけなのである。
これは根本的な”宗教改革”なのだが、どうも一般大衆には理解されにくいもののようで、呪術や「多神教」の感覚が引き継がれてしまう…
最近では、礼拝や儀式自体が、そうした”勘違い”を再生産してしまうのではないかとさえ考えている…
そういうわけで「一神教」とは言うものの、キリスト教もイスラム教も凡夫が”信仰”するせいか、多分に「多神教」的だったり、呪術的だったりする…
だが、そこには”真実の教え”は存在しない…
それで、キリスト教とイスラム教の「ちがい」について、もう少し言うと…
たとえば、イエス・キリストは「キリスト」ではなく、「預言者のひとり」としていることは先に述べたが、さらにコーランでは、イエスは十字架にかからず生き延びたとされているという…
日本にイエスがやってきたという伝説もあるそうだが、地球人の3分の1(?)の人々が、コーランによって、イエスが生き延びたことを知っていて、それは”常識”なわけである…