花は生きているのか? | 沖野修也オフィシャルブログ Powered by Ameba

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いけばなをたしなむ人間として、

花の命のことを何度も考えた事がある。

いけばなをする為には、

花を切らなければならない。

自然に枯れる花を

生きている内に切ることに抵抗があった。

 

でも、自然の美しさと人間が表現する美は違う。

 

自然には自然の美しさがあるし、

人間にしか作り出せない美があるのだ。

 

だから、

いけばなに取り組む時は、

自然界には存在しない美の創出に勤しんだ。

枝と葉も揃え、

自分の心が見抜いた自然の中に隠されたイデア(理想)を

浮き彫りにすることもあれば、

素材の大胆な組み合わせと

敢えて不自然な形に枝や葉を曲げたり巻いたりして

架空の植物をこしらえる。

 

ちなみに、

水をやることで花は一定期間生きながらえる。

だから、死んではいない。

花は人に観られる間は、生きているのだ。

 

そういう意味では

いけばなは、写真に似ている。

景色や生活を切り取り、

人に観られることでそこに生命が宿る・・・。

 

2021年度のKYOTOGRAPHIEに行って来た。

今年のテーマは、ECHO。

 

過去のこだまとしての現在。

現実を映し出す作品としての表現。

 

感じ方は人それぞれだろう。

が、しかし、

そのスタイリッシュな打ち出しとは裏腹に

毎年、

社会的で、

生と死の問題に向き合うこの写真展は

商業主義が盛り上がるアート・シーンにおいて

異彩を放っていると思う。

 

今年は、

東北地方の津波から、

そして、原発の爆発から10年。

奇しくも、我々は、

再び見えない恐怖にマスクで防御する事になった。

そして復興を謳いながら、復興を無視し、

被災地の、

或いは、

自宅で療養?する人達を見捨てる形で

幻想の祭典が開催された・・・。

 

子供の頃、

毒草と母に教えられたセイタカアワダチソウ

(母はキリン草と呼んでいたが)を使ったいけばなをKYOTOGRAPHIEで観た。

その日、最寄駅に向かう途中、外国人の妻が群生する見たセイタカアワダチソウを美しい!

と言うので、あれにはアレルギー成分があって嫌われているんだよとたしなめたばかりだった。

 

 

僕にセイタカアワダチソウをいけばなに使う発想はなかった。

しかも、フレコンバッグと組み合わせてあるのだ。

 

勿論、KYOTOGRAPHIEはいけばな展ではない。

誰もいない津波の跡地でいけられた花の写真も展示されていた。

 

ボロボロの車にいけられた花。

壊れたランドセルにいけられた花。

 

花は美しく、荒廃した状況とのコントラストが、

いのちのはかなさを物語っていた。

 

そして、

放射能で汚染された土地でたくましく生きる生命力を湛えていた。

 

僕たちは忘れるのが得意だ。

そして、目を逸らすのが得意だ。

想像力の欠如は、

過去の悪い記憶からも他者の苦悩からも僕たちを解放してくれる。

 

作者、片桐功敦はそんな僕たちを逃さない。

花の美しさで人を惹きつけながら、過酷な現実を突きつけるのだ。

 

果たして、

野党は頼りないという思い込みで、

原発を再稼働し、五輪を強行した政府に、

投票、もしくは棄権で信任を与えるこの国の人々に

この展示が響くのだろうか?

 

彼らにはセイタカアワダチソウの美しさは判らないかもしれない。

 

PS

 

キリン草と書きかけて、

画像検索でセイタカアワダチソウという名前を確認した

(母はキリン草と呼んでいたけれど、そう言えば、正式名称も知っていたな)。

今朝初めて、花粉症は濡れ衣で、体内の毒素を排出するのでハーブとして利用されている事を知った。