僕と政治〜その①家には3種の新聞があった | 沖野修也オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 「沖野さんはすぐ政治の話するからな」
とか
「音楽家は政治に関する発言は慎んだ方がいい」

言われる事があります。
厳密には政治のことを話していなくても、
友人達から僕は政治の事に興味がある人と思われているようです。
確かに、安保法制には反対の立場ですし、ここ2年程の愛読誌は
『世界』だったりします。
でも僕が、五輪を巡る賄賂疑惑の問題や
安倍総理が連発する虚言の数々にコメントすることは、
決して反体制や反自民党的な発言ではなく、不正の指摘であり、
リーダーの資格を問う組織論的な疑問の投げかけでしかないのです。
但し、与党に属する人間、あるいは関係者を批判することが
イコール反政府的であると思う人がいるのは想像に難くありません。
支持する対象を冒涜?されたことに対する腹いせに、レッテルを
張りたいのでしょう。
あたかも自分も権力の一部であるかのような振る舞いをして・・・。
 そもそも政治的発言とは何でしょう?
戦争に反対し、平和を願い、表現の自由を、
そして基本的人権を守ろうと口に出して言うことは
左翼的な思想なのでしょうか?
それは、国民の当たり前の気持ちであり、
憲法で保証された権利である筈です。
それが政治的であると非難される時代/社会に対し、
とても不安を感じます。
誰にけしかけられたのか知らないけれど、
感覚が麻痺してませんかね?
 時に政治とは
駆け引きや闘争という言葉と一緒に語られる事が多く、
対立や勝負、煽動や画策など
危険で非日常的なイメージを持たれる事があります。
しかし、僕にとって政治とは、生活の一部であり、
リーダーを決定したり、決め事を判断する
プロセスであると思っています。
だから、この社会で生きて行く以上
決して忌避するものなんかではなく、
仕事や趣味、文化や芸術と一緒に、
食卓で交される会話の中の一ジャンルでしかないのです・・・。
 こんな風に考えるようになったのは、
子供の頃の環境が特殊だったからかもしれません。
故に、2重の意味で僕は他人に自分の考えを
押し付けないように気をつけています。
何故なら僕と同じ境遇に育った人はいないだろうし、
僕はその特殊な環境の中で違う意見に耳を傾け、
相容れない考え方も尊重しなければいけないという
"訓練"を受けて来たからです。
 父の妹の旦那さんは自民党の有力議員の後援会の要職に着いていました。
そして、父の従兄弟は共産党の市議でした。
更には、祖父の弟の家族は皆、創価学会の会員でした。
そういうこともあって、我が家では、
読売新聞と赤旗と聖教新聞の3紙を同時に
父が購読していた時期があるのです(笑)。
 深く読み比べることはありませんでしたが、
3紙の報道は見事に違っていました。
新聞というのは公平で中立的であると思い込んでいた僕にとっては
衝撃的な事実でした。そして、僕はこうした親戚との付き合いの中から
次のようなことを考えるようになりました。
自民党は仕事を取って来てくれる。
共産党は正義感が強く(あくまで共産党的正義?)
世の中の不正を告発している。
公明党(創価学会)の人はおもいやりがある
(本当は創価学会と一緒くたにしてはいけないんですが、
実質的に選挙活動を担当していましたから)と。
子供の雑感なんで、どれもが正解ではないかもしれません。
あくまで印象です。
当時3党は相容れない関係でしたから(現在は自公政権)、
その3者と付き合っている人は少なかったと思います。
でも僕は、その3党に関わる人と
コミュニケーションを取らざるを得なかった。
また、皆さん人間的に素晴らしい方ばかりだったので、
どの党はいいとか、あの党はダメだという風には思わなかったんですね。
この3党の関係者が
親戚の集まりで一同に介することはほとんどなかったし、
元軍人で独裁的長老であった祖父が
座の中心にいる時は政治の話はおろか、
誰も彼に異論を挟むことがありませんでした。
ちなみに、徴兵された祖父の口癖は「
何か文句があるのか?わしは弾を避けた事がないんだぞ」というものでした。
本当に怖かったなぁ。
天皇陛下に戦争責任がある!と断言してはばからず、
死ぬ前に赴任していた四川を訪れ現地の人にお礼を言いたい
(敵兵であるのにも関わらずよくしてもらったそうです)
とよく言っていたのですが、その夢叶わず
自転車事故であっけなく亡くなってしまいました。
折れたあばらが肺に刺さっていたのに、
痛くないと言い張ってそのまま病院で帰らぬ人に・・・。
 そんな訳で、僕は自民にも共産にも公明(創価学会?)にも
割と抵抗がなかったんです。
父が政治の話をよくしていたので、政治はタブーでもなかった。
そう考えると、デモに参加したり、音楽家の有志と共に
安保法制について声をあげるイベントを行なってるのは、
やはり父の影響なんだと思います。長く染色工場に務め、
労働組合の組合長として資本家と賃金闘争していました。
労働組合の代表としてモスクワで行なわれた世界大会に
招待されたこともあったんです。
選挙の時、誰に投票したの?って聞いたことなかったんですが、
今思うと彼は社会党に入れていたのかもしれません。
 とにかく、僕はそんな"政治的"な家庭に育ったんです。
次回は、今回の参院選について書こうと思います。
三宅洋平の事と京都選挙区のことも。