「人生は禍福であざなえる縄の如し」という言葉があります。

人生では良いことと悪いことで作られた一本の縄のようなものだという意味です。

 

まさにこのことは日々実感するところです。

いろんなことが起きて当然、

そう思っているので

不条理なことが起きたとしても

一喜一憂しないようにと気を付けています。

 

また、最近実感するところに以下のこと。

 

「三世の因果について」

 

そんなことない、

聞き入れられない、

受け入れられない、という方はいらっしゃるでしょう。

 

しかし、困ったときだけ神頼み。

お願いをしたいときだけする、

という方がいらっしゃるとすれば

なるほど、と捉えるのも一つだと思います。

 

また私自身不思議な体験をしたことが多々ありまして、

魂で過去に会ったことを感じ取ってしまうと

科学では証明できないことが

世の中にはあるということがわかります。

 

ただ「三世の因果」があるとしても

必ずそうだとはいえないとしても

懸命に生きていくことには変わりないということは

自分自身の中でははっきりしています。

 

 

「三世の因果」があるから

自分の行動が変わる、

とうことはないということです。

 

どう捉えるかはその人次第。

 

出会う必要がある人とは出会うようになっているし

縁がある人とはつながるのが自然なことだと実感します。

 

 

仏法では、私達の人生の幸・不幸が、三世(過去・現在・未来)にわたる因果の理法によって定まることを説き明かしております。


 たとえば、『心地観経』という経典には、「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」とあり、また中国の賢人、天台大師は「今、我が疾苦は皆、過去に由る。今生の修福は、報・将来に在り」と説いています。


 すなわち、自分自身の過去からの善悪さまざまな行いの集積が、宿業(善業と悪業とがある)となって生命に刻みつけられ、それが現在の人生に苦・楽や幸・不幸という果報をもたらしている。そして、また現在に作っている原因は、新たな宿業として生命に刻まれ、必ず将来にその果報が現われる、というのであります。


 この因果の理からすれば、生まれついての病や貧富の差などは、今生に生を受ける以前、すなわち過去世において原因が作られており、また、今生で果報を受け終わらなかった宿業は、死後、未末世へと持ち越すことになります。仏法では、そうした三世にわたる生命の因果と流転の相を、「十二因縁」という法門として次のように説いています。


  一、無明…我々の生命が元々もっている煩悩のこと
  二、行… その煩悩によって過去世で作った、善悪それぞれの宿業のこと
  三、識… 過去世の業により、現在の母親を定めて、その胎内に宿る(受胎する)こと
  四、名色…名は心、色は身で、胎内で身心が発育しはじめた状態
  五、六入…身心に眼・耳・鼻・舌が具わって六根すべてが揃った状態
  六、触… 生まれたばかりで、分別がないまま物に触れて感ずるだけの状態のこと
  七、受… やや成長し、苦・楽などを識別して感受する状態のこと
  八、愛… さらに成長して、事物や異性に愛欲を感ずる段階のこと
  九、取… 成人して、事物に貪欲すること
  十、有… 愛や取などの現在の因により、未来世の果を定めること
 十一、生… 未来世に生を受けること
 十二、老死…未来世において、年老い、死ぬこと


 以上のうち、一と二は過去世の因、三から七までは現世の果で、八から十は現世の因、十一と十二は未来世における果を指しています。私達の生命は、このように十二の因縁が三世にわたって連鎖しながら、生と死を繰り返していくのであります。