厭離穢土 欣求浄土 | 家康公出世手形

家康公出世手形

いよいよ動き始めた「家康公400年祭」。
この大きな節目に出会えた私たちは、本当に幸運だと思います。
千歳一隅の機会を活かして、歴史を知り、生き方に学び、
夢へと踏み出す勇気を頂こうではありませんか。

テーマ:

「浜松と家康公」のカテゴリながら、いきなり岡崎のお話です。
知らない方にとっては、読み方も分からない漢字ばかりのタイトル。
でも、ご存知の方にとっては、とても有名な言葉です。
「おんり(えんり)えど ごんぐじょうど」と読みます。
徳川家康公が、生涯掲げていた旗印としてあまりにも有名です。

家康公がこの言葉と出会ったとされる岡崎市の大樹寺のサイトでは、
その意味をこう解説してくださっています。


「苦悩の多い穢れたこの世を厭(いと)い離れたいと願い

心から欣(よろこ)んで平和な極楽浄土を冀(こいねが)うこと」と。

http://home1.catvmics.ne.jp/~daijuji/


小説などでは、この旗印のエピソードは

意外とあっさりとした扱いなんですが、
個人的にはものすごく思い入れがあります。
ひょっとして家康公がこの馬印を掲げていなかったら、
浜松に来られることはなかったのかもしれないと思ったりするほどに。
なぜそう思うようになったのかと言えば、
大樹寺に残されている以下のお話に出会ったからです。



●厭離穢土 欣求浄土 ~家康公の平和思想~
http://www.okazakicci.or.jp/konwakai/18okazakigaku/18-6.pdf


素晴らしいお話なので

詳しい内容はぜひ読んでいただきたいのですが、
少しダイジェストさせていただきたいと思います。




桶狭間の戦いで、家康公(当時は松平元康)は

今川義元の元で戦っていました。
しかし、義元は織田信長に討たれてしまいます。
「義元死す」の知らせを受けた家康公は、
闇夜の中を故郷である岡崎へと逃れ大樹寺へと入ります。
そこで家康公は「もはや自分の命はここまで」と考えて、
御先祖の墓前で切腹しようと

その時の住職13代登誉上人に告げられたそうです。

すると上人は、寺を挙げたお守りするから安心してほしいと告げ、
白い布に厭離穢土欣求浄土と書いてから、

家康公にこう質問したそうです。
「あなたは、あなたは若い時から戦場に向かっておるけれども、

その心はただ敵を殺すだけにあるのか」と。
家康公は「武人の心はただそこにあります」と答えます。
すると上人は「ならばなぜ、それをするのか」と

繰り返し問うていきます。

何度かの問答の後、家康公が

「最終的には天下を取って、子孫を繁栄させ、父母の名を残すため」と答えると、

上人はこう言ったのだそうです。
「天に得ざるの国を強奪するのは、盗人の所業ではないか」と。
「例え運があって天下を取ったとしても、その非道は子孫に伝わる。
栄華も夢のようなもので、

命が終わった後は必ず地獄に落ちるのだ」と。
そして、「あなたは最終的には万民のために天下の父母となって、
万民の苦しみを無くすことをしていかなければいけない」と、
懇々と諭されたというのです。



このお話を読んだ時、長年の疑問が解けたような気がしました。
いつも「なぜ、家康公は浜松に来たんだろう」と思っていたからです。


当時の家康公は、今川義元の人質から解放されて独立したとはいえ、
常にしいたげられていたお家事情はかなり貧しかったはずです。
三河一向一揆で領国も安定していたわけではなかった。
それでも、この出来事の10年後、三河を平定するや
すぐに浜松へと進攻を始めるのです。
若干29歳、わずか一国を領するのみの弱小大名ながら、
浜松城を構えた家康公は、織田信長、武田信玄という
戦国最強の武将たちと正面切って渡り合っていく。
なにもかもが足りない逆境をものともせず、
そこに挑んでいくその決意の強さは、どこから来ているのか。
ずっと疑問だったのです。


でも、大樹寺のお話を知った時に、思ったのです。

浜松に進攻されたのは、

旗印の言葉を追いかけるためだったのではないかと。
普通の人だったら単なる絵空事と思うような理想を、
真っ正直に実現しようと思われていたのではないかと。


そう考えると、徳川家康公というお方は、
とてつもなく痛快な人だなと思ったのです。
そして、家康公の挑戦の物語が刻まれている浜松が、
なんとなく誇らしく思えてきたのです。

みなさんは、どう思われるでしょうか。



来年2015年は、いよいよ「家康公400年祭」。
もっともっと、家康公と浜松の物語を掘り下げていきたいと思います。
これからもぜひお付き合いください。