2023/10/01
朗読 ブッダの真理の言葉 写経
第1章 解釈編 ④「情欲の侵入」
「法句経(ほっくぎょう)、ダンマパ(巴:Dhammapada
)は、仏典の一つで、仏教の教えを短い詩節の形(アフォリズム) で伝えた、韻文のみからなる経典である。「ダンマパダ」とは、パ ーリ語 で「真理・法(巴: dhamma)の言葉(巴: pada)」という意味であり、伝統的漢訳である「法句」とも意味的に符合する[1]。」Wikipedia
誠でない物を、
誠であると見做し、
誠である物を、
誠では無いと見做す人々は、
誤った思いに囚われて、
終に誠に達しない。
誠である物を、
誠であると知り、
誠では無い物を
誠では無いと見做す人は、
正しき思いに従って
終に誠に達する。
あの人は人徳で上手くなんとかやります。
あの人ならきっと上手く説得するに違いない。
あの人がちょっと掴ませたら万事如意です。
あの人の容姿ならきっと許してくれます。
この世の中には、
こんな事が沢山溢れていて、
真実を見極める機会すらない。
そんなことで上手く行けば、
それが真実だと勘違いして、
更に自分を苦しい立場に追い込む。
更に周りを苦しい立場に追い込む。
今の世の中は過去に、
あまりにも宗教から裏切られたため、
宗教は、
怖い、
危ない、
お金がかかるとしか見られていない。
宗教は、
「お葬式の時だけ呼ぶものだ」
と思っている人が多い。
真実を皆で追求する宗教でさえ、
僧侶の中に高く厚いヒエラルキーを作り、
世襲を守るのに精一杯だ。
宗教が政治に参加して、
それを誠だと思う。
これが現在の日本である。
僕もまたその1人だ。
屋根を粗雑に葺いてある家には、
雨が漏れ入るように、
心を修養していないならば、
情欲が心に侵入する。
屋根をよく葺いてある家には、
雨の漏れ入る事が無い様に、
心をよく修養してあるならば、
情欲の侵入することが無い。
これは僕の解釈が間違えているかもしれない。
でも間違いを恐れずに、言う。
この一年、
障害者として思ったことは、
人間は、
いや男性は、
射精をしなくても、
生きていけるという事だ。
それはその機能が毀損しているからではない。
汚れて臭い性器を毎日洗っているからに他ならない。
この部位は、信じられないほど汚れる。
何故なら特に僕は薬で、
1日14回も排尿をするからだ。
尿の存在感は凄い。
むしろ尿は便より臭いと思うことすらある。
そこにもし、
手淫の汚れを加えたらどうであろう?
一度射精をすると精子は、
中々その臭いが消えない。
そしてその臭いは、
次の精子を誘い、
遂には、
「射精をしないと生きていけない。」
とまで思ってしまう。
そこにあの尿の臭いだ。
これらは全て同じ性器から出る。
また、臭いのみならずこれらは、
痒みを伴う。
その痒みが更に情欲を誘導する。
そしてこれらが男女の間にある時、
情欲がどれだけ漏れ入る事か?
では情欲とは否定すべき存在なのか?
これは、
仏教に帰依して間もない今は分からない。
ただ言える事は、
情欲が無ければ子供は出来ず、
性器は毎日、
清拭し清らかに保つべきだろう。
と言う事だ。
悪い事をした人は、
この世で憂え、
来世でも憂え、
2つのところで
共に憂える。
彼は自分の行為が穢れているのを見て、
憂え悩む。
良い事をした人は、
この世で喜び、
来世でも喜び、
2つのところで、
共に喜ぶ。
彼は自分の行為が清らかなのを見て
喜び楽しむ。
悪いことを為す者は、
この世で悔いに悩み、
来世でも悔いに悩み、
2つのところで悔いに悩む。
私は悪い事をしましたと言って悔いに悩み、
苦難のところ、地獄などに赴むいて、
罪の報いを受けて更に悩む。
良い事を為す者は、
この世で歓喜し、
来世でも歓喜し、
2つのところで共に歓喜する。
私は良い事をしましたと言って歓喜し、
幸あるところ、
天の世界に赴いて、
更に喜ぶ。
例えば、
トイレに紙を落としているとして、
それを車椅子から体を乗り出し、
拾っている自分が愛おしい。
例えば、
おじいちゃんおばあちゃんに、
返事は無くても、
挨拶をしている自分が愛おしい。
例えば、
夕食の米粒一つも見逃さず、
利腕でない左手で、
それを掴んで食べる自分が愛おしい。
でも未だ自分は足らない。
善行が不足している。
多分一生不足しているかもしれない。
あんたが南の国でのほほんとしている間に、
日本人は皆、
あなた見たいな苦労を、
いや、それ以上の苦労をして来たと、
怒る人もいるだろう。
でも、
僕はあなたに謝罪する為に、
善行をしているんじゃない。
僕の為にしているのだから、
そしてその功徳を回向する為にするのだから、
苦労をあなたと競うつもりは無い。
たとえ為になる事を、
数多く語るにしても、
それを実行しないならば、
その人は怠っているのである。
牛飼いが他人の牛を数えているように、
彼は修行者の部類には入らない。
例え為になる事を、
少ししか語らないにしても、
理法に従って実践し、
情欲と怒りと迷妄とを捨てて
正しく気をつけていて、
心が解脱して執着することのない人は、
修行者の部類に入る。
善行を積んでも、
それを人と比較していては、
それを人に自慢していては、
それを人に愚痴っていては、
善行とは呼ばない。
合掌
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