ゆっくり真理教の教義の第三条までは、下記の記事で閲覧できます。
第一条 現に直面していることに、ゆっくり・じっくり・丁寧に取り組む
https://ameblo.jp/shuhom/entry-12817326883.html
第二条 何かを変えたければ、ちょっとずつ進める
https://ameblo.jp/shuhom/entry-12819531299.html
第三条 あらゆるものごとの中に、小さな喜びを見出す
https://ameblo.jp/shuhom/entry-12822188796.html
さて今回は・・・
■ゆっくり真理教の「悟りと修行」についてのポリシーです
・瞑想や坐禅、呼吸法やボディー・ワークなどの、特別なメソッドは、必須のものではない。
・逆に、瞑想や坐禅を続けた結果として「悟り」に至った人って、聞いたことがない。
・そういう実践を長く続けていると、「その先にゴールがある」という設定から抜けられず、今までの修行の実績も捨てられず、「誰もが今すでにゴールにいる」ということに、気づきにくくなるのではないか。
・ゆっくり真理教では、生きていること自体が「修行」であり、いつか到達するゴールへの「手段」とは考えない。
・「究極の目的と、そのための険しい道のり」という図式を離れ、「過程」の中にある愉しみや、折々の風景を味わうようにする。
・今のまま、そのまんまに生きていること自体が、「悟り」の現れでもある。
・「悟り=今のまま・そのまんまに生きていること=修行」とすれば、仏教の「修証一等」(修行と悟りは同じものである)とか、「煩悩即菩提」(悩み苦しみも悟りの現れである)とか、「生死即涅槃」(迷いながら生き死にすることも安寧の境地である)、といった言葉が理解しやすい。
・ただでさえ生きにくい人生なのに、そのうえ特別な修行を加えなければ救われないというのは、あまりにも過酷すぎる。
・そんなハードルの高い設定はやめて、日常の行住坐臥や一挙手一投足、あらゆる瞬間の中にこそ、修行の実践と悟りの実現を感じることの方が、現実的で堅実である。
・いつもの雑用や面倒くさい作業にも、「ゆっくり・じっくり・丁寧に」取り組むことで、意外な発見や学びや面白味があったりする。
・そうすると、現に今やっていることの中に、審美的な愉しみがあり、生きることそのものが芸術的になってくる。
・また、人生を左右する災難(事故や対人トラブルなど)は、ちょっとした不注意や焦りから引き起こされることが多い。
・早合点や早とちりや取り越し苦労は、ほぼ害悪でしかないので、ものごとを、よくよく見極めることが大切である。そのためには、ゆっくりと取り組む必要がある。
■悟り系メッセージやノンデュアリティ・フレーズに絡めとられている方へ
・「思考」はなくすことはできないし、減らす必要もない。
・「自我」を撲滅することはできないし、そんな必要もない。
・「分離」も必要である(水と油が分離しなければ、石油を得ることもできない)
・「個人」と、その「主体性」(自由意思)は、近代以降の法治国家システムの土台であるから、それを一般論として否定するような言説には気を付ける。
・「知識」や「頭だけの理解」も、かなり大切である。どっかの誰かの「体験」や「体感」にすぎないことを、自分に当てはめたがるのは、大きな勘違いである。広く深く、先人たちの知恵を学ぶことの方が、確かな道しるべになる。
~「愚者は経験だけに学び、賢者は歴史にも学ぶ」(ビスマルク)
・「覚者」さんたちは、いろいろと「浮世離れした」ことを述べるが、その人の思想・信条の端的な表現(「神は死んだ」とか「人間は考える葦である」とか)に過ぎないので、そのまま体感する必要もなく、実生活に当てはまるものではない。
・「覚者」さんたちも、「個人の感想」を「個人の表現」で述べているだけであり、決して「究極の普遍的な真理」を述べているわけではない。
・このことを見抜くことで、「正気に戻る」ことができて、「難民」からの脱却になる。
・権威ある人が言ったことでも、「それ、ちょっとオカシイな」と感じたら、その疑念の方を大切にする。
・「特殊な境地・特殊な状態・そのための特殊なメソッド」などを目にしても、触手を動かさないようにする(特に高額で販売されている場合)。
----次回は、修行の実践的な例を述べたいと思います-------
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