精神世界や非二元の探求に於いて、よく、「知識や情報ばかり集めても、しょうがない。実践や体感が必要である」みたいなことが言われますが、こうした言葉はウソです。

およそ人間の活動には、無駄なことはありません。さんざん読書や探求、知識の蓄積を経たからこそ生じる体験や体感というものもあります。

逆に、情報や知識(例えば常識=社会生活上で必要とされる知識)なども乏しいまま、神秘的な体験や体感だけが先にあると、大いにトンチンカンなメッセンジャーになったり、社会的に喜ばれない存在になることもあります。

 

遠回りしてもいいし、同じ頂上を目指さなくてもいいんです。


さて、およそ精神世界やスピリチュアルの探求が、最終的に目指すものは、「心の平安」だと思っています。

 

悟りの境地や非二元の解放や、意識の次元上昇、こういったことの先にあるのは、「心の平安を得たい」というものだと思います。

ならば、「心の平安」さえ満たされれば、悟りだの解放だのアセンションだのが、どういうものであるかとか、それを実現したり体験したりしなくても、どうでもいいと言えます。

「心の平安」は、修行の末に達成されるものでもなければ、何かのメソッドの実践の成果でもなければ、瞑想を続けることで得られるものでもありません。

何も余計なものを着飾らない、素のままで在ること、それだけのことなのです。

だから、何も、宇宙との一体感を感じられなければダメだとか、自己の消失を実感しなければならないとか、主体と客体が分離していてはダメだとか、禅の公案が解けなければならないとか、何か特別な境地や境涯や状態や、なにかの能力や浄化も、まったく必須のことではありません。

誰もがアタリマエに備えていてアタリマエに発現しているもの、その中にこそ「心の平安」があります。

 

ではそのすでに持っている「心の平安」を実感するには、どうすればよいでしょうか。

 

方法論ではないのですが、ケムに巻くようなメッセージを発してもしょうがないので、あえて、具体的な態度のようなものを挙げてみたいと思います。


「自分に足りないものではなく、すでに持っているものに注意を向け、感謝する」

 

「すべてのものごとを平等に観る。他人と自分とか、過去や未来の自分との比較をやめる」

 

「ものごとも人々も、いま在るままで、そのままが真実の姿であり、何の過不足もない」

 

「妄想をしない。妄想とは、予測や憶測・想定など、いま現に起こっていない物語のこと」

 

「ことの結末は天に任せ、実際に起きたことは受容する。まぁ、いいか!、これでいいのだ!」

 

「この世の中は、思うがままにはならない、このことを覚悟する。災難も、当然おこる」

 

「正しさや根本的な解決を希求しない。どっちつかずや曖昧さの中で、くつろいでいられるようにする」


とにかく、「こういう状態にならなければならない」という思い込みを、排するようにしましょう。

 

なんであれ、「心の平安」さえ得られればいいのですから。

 

得られるというより、もともとそうなので、思い出すだけでいいんですが。