浄土宗系の「時宗」の宗祖である「一遍上人」(1239~1289) が、和歌山県の由良の「法灯国師」(臨済宗興国寺派の宗祖、「心地覚心」1207~1298)にお会いになった折、「歌を詠みました。」といわれました。

「それはまた、どんな?」と、法灯国師がお聞きになり、一遍上人は、

「となふれは、仏も我もなかりけり、南無阿弥陀の声ばかりして」

という歌を提示しました。

それを受けて法灯国師は、「下の句に、何か工夫なされたらどうですか?」といわれました。

その後、一遍上人は、和歌山の熊野に籠って修行をされて、再び法灯国師のもとを訪れ、こう詠みました。

「となふれは、仏も我もなかりけり、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」

法灯国師は、「これです、まさにこれです!」と、何度もうなずかれたといいます。

【出典 : 沢庵宗彭『玲瓏集』】

ここでありがちな解釈では「南無阿弥陀仏の声ばかりして」というのは、まだ声を聞いている『私』というものが残っている(皮一枚残っている)からダメなんだですよと。

作り直した歌では、「南無阿弥陀 仏南無阿弥陀仏」と言い換えていて、「南無阿弥陀仏とすべて一体となっている」から、合格だということです。

秀峰も、以前は、この話を「なるほど」と納得していたのですが、最近になって、何か違和感を覚えました。

以下は、秀峰の個人的な感想です。

①歌を詠んでいる自分が発声していて、その音を、自分が聞いているのは当然であるから、「声ばかりして」でも、ぜんぜん構わないと思う。

②「まだ声を聞いている『私』」がいるじゃないか」というのは、禅者が大切にする、主体と客体が分かれる前の「本来の面目」を体得せよ、という教えから来ているんだろうが・・・。

③もし「声を聞いている私」がいるのがケシカランのなら、冒頭の「となえている私」がいるのもケシカランではないか。

④「主語や主体」を、なきものにしようという教えは、スピ系のノンデュアリティ・スピーカーさんも、都合よく引用する。

⑤そもそも、「その歌を詠んだ誰かはいない」なら、その歌は、庭の地面からでも生えてきたのか?

・・・

あの法灯国師や一遍上人が作り直した歌に、疑問を呈する秀峰は何様なのかと、自分でも思いますが、正直な感想なので、しょうがないです。

どんな高名で権威ある方の言葉でも、ご自身が「なにか変だぞ」と思えたなら、その疑問こそ、じっくり掘り下げるのも面白いと思えたのです。

 

 

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