「継体天皇は今、とっても幸せじゃね?」って~思った・・・観察ランd(^O^)b | しゅ~る之助の新々観察ラン日記

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「下京のジョージ・クルーニー」を自称する、坐禅と観察ランで、                                        京都の街をしぶとく生き抜くおじさんの日記です。

 

 

今朝も元気に観察ラン・・・なしよ!ヽ(^o^)丿

 

って~のも、昨日の観察ランで22キロも「ラン&ウォーク」したので、今朝はさすがに休足したからである・・・(^_^;)

 

↑はスタートのJR山崎駅であるが、御存知の通り、ここのホームには「京都府」と「大阪府」の府境の標識がある・・・。

 

いまだに、緊急事態制限下なので、他府県への移動に自粛要請がかかったままなのだが、今回もこの府境標識の前で「府境越ダンス」を踊ったのであった・・・みゆきだけね(^_^;)

 

今回の「天皇陵巡り観察ランー継体天皇編」は、府境越自粛要請を揶揄うするかのよ~な、踊りから始まったのであった・・・d(^O^)b

 

ま~言ってみれば、「揶揄する」って~より「新規感染者の急減速」を祝う「祝いの舞」・・・って~感じだったけどね・・・d(^O^)b

 

さて、継体天皇は謎の多い天皇であるが、現在通説では「高槻市今城塚古墳」が継体天皇陵とされているが、宮内庁書陵部はあくまでも「茨木市太田茶臼山古墳」を継体天皇陵として認定している・・・。

 

記紀の「摂津の三島の地に埋葬された」って~記述から、このエリアにある二基の大規模前方後円墳のどちらかが継体天皇陵だと推測されたのだろう・・・。

 

それ以外の史実的証拠があるのかどうかは知らね~が、明治政府のなんかの思惑があって、「太田茶臼山古墳」に決定した、って~ところやろ~・・・「ニセ古代史研究家」としては、そう思ふのである・・・(^_^;)

 

去年、今城塚古墳を観察ランして陵墓を散策し、付設の歴史館まで見学したので、事前に様子は分かっていた・・・。

 

改めて、今回訪問してみて、さりげに「こここそ継体天皇陵である!」と主張しているのが、全体から感じられた・・・。

 

 


 

しかし、ものは考えようで、宮内庁書陵部がここを継体天皇陵と認めなかったことで、今では広く一般公開され、散策は自由だし、埴輪のレプリカもたくさん置かれて、それなりの雰囲気だしね・・・。

 

その上、詳細な学術調査もされているので、日本イチ大きいとされる家型埴輪などの埋蔵品も見学できるしね・・・。

 

古代史ファンからしてみれば、これほどはっきり天皇陵と分かってるのに、これだけ解放されている天皇陵はここしかね~ので、大人気の古墳なのだそうだ・・・。

 

だから、高槻市にしてみれば、変に継体天皇と認定されて、宮内庁書陵部によって閉鎖されるよりは、今の観光資源としての価値がある状況の方が、めっちゃ好ましい状況なのではないか・・・と思ったのであった。

 

 

この今城塚古墳から西に1~2キロの茨木市藍野にある「継体天皇陵」に走っていってみると・・・。

 

他の天皇陵と同じく、参拝者は見当たらず、「死の世界」を覗きこむような静かで厳かな雰囲気に満ちていた・・・。

 

 

継体天皇にしてみれば、たくさんの人が訪れ、多くの家族連れが憩おう「生の気」に満ちた公園に眠ることと、閉鎖された静かな「死の気」に満ちた陵墓に眠ることと、どちらがいいのだろう・・・。

 

それは継体天皇に聞くしかね~のだが、少なくとも、今を生きている庶民(日本国民)にとっては、明るい公園であることの方が、よっぽど、ありがて~・・ことなのは、間違いね~だろ~・・・。

 

かと言って「茨木市」が悪いのではなく、茨木市にしてみれば、観光資源にもならね~よ~な「小山」を宮内庁に押し付けられて、どちらかって~と、迷惑なんじゃね~かな~・・・と、思った。

 

こ~して二つの巨大古墳を観察したアト、歩き宴会で、最寄り駅のJR総持寺駅に向かい、その近くにあった「西国三十三か所観音霊場」のひとつ「総持寺」にお参りし、駅から電車で、一旦JR高槻駅に戻った・・・。

 

 

高槻駅に戻った目的は、行きがけに見かけた駅前の「あご出汁ら~めん越後屋」でランチする為であったが、予想通り、めっちゃ美味いら~めんだった・・・。

 

 

 

そのアト、高槻市内の商店街で、焼き肉用の肉と野菜を買って、再びJRに乗り込み、京都まで帰ってきた・・・。

 

で、みゆきによると、今日の「みゆき弁当」には、その焼肉の残りを入れるとのことなので、SNSで友達登録している人達は是非チェックしてくだせ~・・・m(__)m

 

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