何故本圀寺は山科に逃げたのか・・・・・。 | しゅ~る之助の新々観察ラン日記

しゅ~る之助の新々観察ラン日記

「下京のジョージ・クルーニー」を自称する、坐禅と観察ランで、                                        京都の街をしぶとく生き抜くおじさんの日記です。

先週の土曜日は、久々の休日出勤で、定時に会社に出勤し、一人黙々と業務をこなした・・・・。途中、得意先に納品にも行き、その他雑用を済ませたアト、二ヶ月半ぶりの散髪へ・・・・。今回で三回目となる、スギモトの散髪屋で髪を切ってもらったが、やはりどうも1時間20分ぐらいかかる時間が勿体無いような気がするが・・・・安い散髪屋禁止令がみゆきから出ているので、仕方ね~・・・・・。でも、仕上がりがよいので、当分スギモト通いが続くと思うけど。

さて、日曜日は、雨の予報が晴れに変わったので、是幸いと山科の本圀寺を訪ねることにした・・・・。この本圀寺って~のは、昭和47年頃山科に移転するまで、西本願寺の北から五条通りまでの、堀川と猪熊通りの間に寺領があった日蓮宗の大本山である。今でも堂々とした題目の石碑(大宮通り、万寿寺通り)が残っており、この界隈には本圀寺の塔頭であった小さなお寺が多く残っている。

イメージ 1

親分が勝手に山科に逃げた?のに、その子分の塔頭だけが残された(多分檀家との関係で残ったのだろうと思うけど)・・・・って~イメージなのである。本圀寺については以前少し調べたことがあったのだが、今回西本願寺の「六条御境」の石碑を見つけて以来、もう一度このお寺について調べ直してみたくなったのである。

本圀寺についてのレポートは別の機会にアップしようと思っているが、一度現在の本圀寺がどんな様子なのか、観てみようという事で、みゆきと出かけたのであった・・・・。

五条通りから五条坂を上り、知恩院の前を抜け、三条通りを東へ・・・・。蹴上峠を超えて、御陵(みささぎ)から疎水道に抜けたところに今の本圀寺の山門があった・・・・。そこそこ大きな境内であったが、かって東の久遠寺、西の本圀寺と言われたほどの大きさはなかった・・・・。本堂の仏像曼荼羅は見事だったが、移転してまだ数40年ぐらいしか経ってないので、建物類は新しかった・・・・。この画像は山門である・・・・・。

イメージ 2

この本圀寺についての謎は、なぜ、本山だけ山科に移転したのか、って~ことであるが、そこに西本願寺との確執があったのかどうか、という点である。歴史を調べても、元々の前身は鎌倉に日蓮が開いた法華堂という事だし、歴史の表舞台に度々登場する非常に由緒あるお寺なのである。その日蓮宗の大本山が寺領の拡大を求めて、山科の山中へ、なら分かるのだが、多分山科の方が狭い、と思うのだ。では、何故・・・・。

本圀寺を観察したアト、疎水道(東山自然緑化ジョギングコース)を走って、毘沙門堂へ・・・・。毘沙門堂は天台宗門跡四ケ寺として、度々京都検定でも取り上げられるほどの有名寺院である。山科随一の桜の名所としても有名である・・・・・。

毘沙門堂にお参りしたアトは、JR山科駅まで走って、電車で帰宅したのであった・・・・・。

イメージ 3


イメージ 4