宮城谷昌光さんのエッセイ「史記の風景」(新潮文庫、平成12年)を読んでいたら、「『史記』のなかの人物は、はげしく喜び、はげしく怒る。大いに哀しみ、大いに楽しむ。そういう感情の起伏の大きさはじつは人間の原点にあったものであろう」と述べ、現代人はそこからすこしかけ離れたところにいる」という個所にぶつかった。
たしかに現代人も人間である以上「喜怒哀楽」のなかにあるが、古代人とはその総量が違うようだ。
司馬遼太郎は「飛ぶが如く」のなかで、西郷隆盛を「巨大な感情の塊」と表現していて、他人の境遇に対して「わがことのように喜び、わがことのように怒り、わがことのように哀しみ、我がことのように楽しむ」人物として描いている。
ただし、どんなに怒ったとしても、殺人をしたことはない。
現代人にもボクのように西郷好きが多いのは、司馬さんが指摘するところにあるのだろうと思う。
ある意味、西郷隆盛という人は「現代人」ではない。
西郷隆盛よりも坂本龍馬の人気が高くなったのは、龍馬が「現代人」だからだと思っている。つまり分かりやすい分だけ、かっこよく見えるのだ。
生き返ってからというものボクの感情は、「平板」になったように感じる。
以前のように怒ることや、喜びや憎しみの感情が、数量的にがくんと落ちたからだ。
ペットを飼っている人なら分かると思うが、犬猫にだって感情がある。
ただ人間とは総量が違う。
そのせいだろう。
野生の動物に懐かれることが多くなった。
怖がらないのだ。
平気で近寄ってくる。
庭木に蜜柑を刺しておくと、ヒヨとメジロがかわりがわりにやって来る。
同じ餌場なので、縄張りを侵されたと思ってか、ヒヨがメジロを見つけると威嚇するが、殺しはしないし、同じ餌をつついている。
庭にお米を撒くと、鳩と雀の出番で、こちらは仲良く食べあっている。
今年からアオジが加わった。
警戒心の強い鳥で、ボクの姿をちらと見ただけで逃げて行ったが、今年からおねだりするようになった。
どうやらますます人外に近づいたようだ(笑)
ボクの音楽の出発点はビートルズなので、邦楽を聴くことはほとんどなかった。
先日大阪のバンド Neatbeats をアップしたとき、Colllectors というバンドを知った。
92年ともなると違和感なく日本語をロックのリズに乗せていて、一発で気に入った。
その気に入った「恋はヒートウェーヴ」です。