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昭和ローカル列車のブログ

昭和後期の時代に日本各地を鉄道で旅行をして撮影した、昔のフィルムカメラで撮った写真をデジタル化してお見せしています。
欧州ローカル列車ブログ、世界のトラムブログの姉妹ブログです。

古口・津谷間 昭和57年02月

国鉄陸羽西線

 

古口・津谷間

 

陸羽西線は、この当時、5往復もの急行列車が走っていました。これはその中でも面白い、羽後本荘発仙台・米沢行きの急行もがみです。この少し先の新庄で2輌ずつに分割され、青森から奥羽本線をひたすら走ってくる急行千秋4号(やはり仙台・米沢行き)のそれぞれと併合します。そのため新庄では米沢行き16分、仙台行き19分の停車時間があります。仙台行きは陸羽東線経由です。そして米沢行きの方は山形で今度は仙台発仙山・米坂線経由新潟行きあさひ3号に併結されて、山形~米沢間は一緒に走ります。天童以遠の青森・羽後本荘方面から米坂線以遠へ直通する車輌はないけれど、山形~米沢間で車内を移動すれば、急行券1枚で乗れたというわけです。何はともあれ、新幹線以前の東北の鉄道は、今にして思えば信じがたいまでに面白い時代でした。

 

Between Furukuchi and Tsuya Stations of JNR Rikuu-Sai Line, Yamagata Pref.

This photo was taken in February, 1982.

Rikuu-Sai Line is now relatively inactive local line with small number of passangers, mostly local in short distance, but before the first Shinkansen arrived in Tohoku area, there were 5 express trains each way. This is one of them originating in Ugo-Honjo then going to 2 different destinations by deviding in Shinjo, soon after this place. Then merging another trains coming from other place. Nowadays there is nothing like that nearly whole Japan.

高松駅 昭和56年12月

蒲原鉄道線

 

高松駅

 

磐越西線の五泉と信越本線の加茂という2つの市を結んでいた全長22キロの蒲原鉄道。そのほぼ中間地点にあったのが、高松駅。駅のすぐそばに陸橋があったので、好撮影地でした。ただ、雰囲気は余命いくばくもないローカル私鉄であり、乗客も少なく、12月という季節と天候もあり、寂しい印象ばかりが残っています。高松は当時の村松町のはずれ、加茂市との境界近くにありました。村松はもともとこの地域の中心とした栄えた城下町ですが、明治時代、国鉄の前身となる路線のルートから外れたため、大正から昭和の戦前にかけて私鉄で結ばれた経緯があります。この区間は1985年に廃止され、僅かに残された五泉~村松間も1999年に廃線となり、蒲原鉄道はバス会社になりました。

 

Takamatsu Station of Kanbara Tetsudo Line, Niigata Pref.

This photo was taken in December, 1981.

Kanbara Tetsudo was a 22km of private local railway inland Niigata area. Takamatsu was a small station at the edge of historical town Muramatsu. This part of line was closed in 1985 then whole line was closed in 1999.

張碓駅 昭和55年08月

国鉄函館本線

 

張碓駅

 

小樽の街を抜けた函館本線は、ほどなく日本海岸の崖にへばりついたような波打ち際をしばし走ります。そこに最近まで、張碓という出口もない不思議な駅がありました。晩年は海水浴や釣りの人のために残っていたようですが、結局廃止になりました。ここは決してローカル線ではなく、当時から札幌への通勤区間で列車本数も多かったです。今と違い、電車、気動車から旧型客車まで、様々な列車が走っていて楽しい路線でした。張碓にはそのうち5往復ぐらいの列車が年間通じて停車していましたが、利用者はほとんどいませんでした。しかし安全監視のためか、駅員がいました。ちょうど降りたドアの目の前に駅員がおり、怪訝な顔で「張碓だよ?」と、さも間違えて降りたのでしょうという反応を受けたのが面白かったです。次の停車列車まで、しばし海辺を走る列車写真を撮ったりして楽しみましたが、駅の外へは出なかったというか、出られなかったと思います。

 

Hariusu Station of JNR Hakodate Hon Line, Hokkaido Pref.

This photo was taken in August, 1980.

This station, located between Otaru and Sapporo on Sea of Japan side, was a strange station with no exit to public road, so existed only for visiting beach for swimming or fishing. The station was later closed.

川原石駅 昭和56年08月
国鉄呉線

川原石駅

海に山が迫り、平地が少ない呉市は、人口が多く、広島との交流も盛んで輸送需要もたっぷりあります。にもかかわらず、土地が狭いこともあってか、呉線は昔から全線単線のままで、その代わり、ほとんどの駅に交換設備があります。当時、朝夕は10輌編成の快速などが走っていたのを覚えています。そんな中にあって異彩を放っていたのが、呉市内にある単線でホームだけの無人駅、川原石です。ホームが短いため、長編成の列車は停車できず、普通列車でも通過していました。当時の国鉄では、都市部の人口密度の高い地域でも、普通列車の大半が通過してしまう駅はあちこちにありました。呉線の場合、ここだけで、時刻表を見て不思議に思った私は、出かけていったというわけです。今は移転して普通の駅になってしまい、趣味的には残念ですが、もちろん地元の人の利便性は増したことでしょう。

Kawaraishi Station of JNR Kure Line, Hiroshima Pref.
This photo was taken in August, 1981.
Kawaraishi Station, a small halt within Kure City, was located in a different place as now. Due to short platform, some local trains did not stop at this station, although the station is located in relatively densely populated area. Now the station has moved with longer two platforms so all local trains stop at this station.
津駅 昭和60年01月
国鉄紀勢本線


津駅

この時代、名古屋から三重県に鉄道で行くのに国鉄を使うのは、多気より先へ行く人だけだったのではないでしょうか。というぐらいに、津あたりは近鉄王国でした。近鉄が今とそれほど変わらずに通勤電車から特急電車まで、頻発させていたのに対して、国鉄紀勢本線は、まさに偉大なるローカル線。DD51などが旧型客車を牽いて、ゆったり走っていました。私は南の方から来て、ここで伊勢線に乗り換えました。荷物車と客車4輌を連ねた、乗ってきた列車が、しばしの停車の後、ゆっくりと亀山へ向けて発車していきました。利便性がどうとか、そういった理屈を抜きに、都市近郊でも大いに旅情がありました。

Tsu Station of JNR Kisei Hon Line, Mie Pref.
This photo was taken in January, 1985.
Tsu is the prefectural capital of Mie, not far from Nagoya City. At that time, there were frequent Kintetsu's commuter train services and it is the same now. On contrast, National Railway service is still very old fashioned, infrequent and slow, and much less passengers. Nevertheless, I liked it, as train was often quite empty so the trip itself was enjoyable.