仕事がきついのではなくただただ辛い | 小腸がなくても平気です!〜しょーへーのブログ〜

小腸がなくても平気です!〜しょーへーのブログ〜

23歳の時に「原発性小腸軸捻転症」という病気にかかり、それ以来小腸がない状態で生活している日々をゆるーく綴っていきます。

久々に更新したら思いのほかコメントやいいねがついて驚いています。ありがとうございます。

仕事の愚痴を書くつもりが、コロナ禍からの僕の記憶の記述になってしまった。せっかく書き始めたので直近までの状況を書き連ねようと思う。


さて、政界では菅さんが総理を退陣し、岸田内閣が誕生しようとしていた頃、私は腸管延長術を受けることを決め、仕事も担当を変えてもらって少し落ち着いていた。そんなとき私はポート感染で入院した。幸いにも熱は出なかったが、ポートの刺入部が腫れていたので入れ替えることにした。

私はいつもポート感染のときにお世話になっている病院へ入院した。病院へ送ってくれた家族が帰り、1人病室に残されて泣いた。そしてポートの入れ替えをしてくれる先生が顔を出した時にまた泣いた。今まで何度も入院したが泣いたことはない。それくらい精神的におかしくなっていたのだろう。

入院してから数日は毎晩泣いていた。ポートの入れ替えが完了し、2週間ほどで退院した。また身体がしんどくなったので、退院後もしばらく休職した。手術日が翌年の1月に決まった頃、3週間だけ復職した。担当業務も変わっており期間が決まっていれば働けるだろうと思ったからだ。しかし相変わらず心療内科でもらった薬は手放せなかった。

そして新型コロナのオミクロン株が猛威を奮っていると世間が大騒ぎしていた頃、僕は腸管延長術の手術を受けた。手術室に入ったのは朝9時過ぎで、気がついたのは夜中の12時。聞くと、手術が終わったのは夜の9時頃だったらしい。12時間に及ぶ大手術だったそうだ。にも関わらず主治医は僕のベッドの横にいた。タフな医師である。

それからは本当に辛かった。夜になっても全く寝られないのである。12時間以上全身麻酔で眠っていたからなのか、寝ようとすると怖い夢を見る。それに普段横を向かないと眠れないのだが、左右の脇腹から管が何本も出ているので、横向きに寝ることができない。そして夢と現実がごっちゃになり、よくわからないことを看護婦さんに言っていた。眠れない夜は親に泣き言をラインした。親と泣きながらLINEでビデオ電話もした。まだコロナ禍だったので直接は会えず、荷物を持ってきてもらったときには少し離れたお互いが見える場所から電話をしてまた泣いた。手術前から精神的におかしかったのが、手術後にさらにおかしくなっていた。

しかし次第に眠れるようになると、精神的にも落ち着いてきた。北京で冬季オリンピックが開催される頃には泣くこともなくなり、夜もぐっすり眠れるようになった。最初は何も食べられなかったのが、最初は流動食、それから少しずつ固い食事になっていった。

そして、まん延防止なんとか〜が解除された頃、退院し、2ヶ月半に渡る入院期間が終了した。といっても点滴は24時間持続しなければならず、外出時も輸液をリュックに入れて持ち運んだ。胃ろうも蓋をしていたがまだ管がついたままだった。

とはいえ自宅療養は病院よりとても楽だった。仕事で病んでいたメンタルも、入院中にかなり癒えたようで、心療内科でもらった薬を飲む必要はなくなった。朝起きて散歩に行き、勉強をし、動画を見るという、最高の日が続いた。

しかしいつまでも休職を続けるわけにはいかない。元総理が凶弾に倒れるという未曾有の大事件が発生した頃、僕は復職した。担当業務は精神を病んだときとほぼ同じ業務だった。最初はかなり気を遣われていたのかなかなか仕事を振られなかった。しかし徐々に仕事が増えていき、またメンタルをやられそうになった。あるとき心療内科でもらった薬を飲んだ。するとスーッと気持ちが楽になった。結果、薬は手放せなくなり、心療内科にも通っている。それでも何とかやれている。いや、ギリギリの状態だ。限界に近い。

とにかく吐き出す場所がほしい、とたどり着いたのはブログである。自分の気持ちを吐き出すことで少しは気が楽になるかもしれないとここに戻ってきた。明日からも新しい一週間が始まる。辛くて仕方がない。辛いことはブログに吐き出す。そうして乗り越えていこう。来月には楽しみにしているイベントが待っている。仕事は無理せずそれなりにやって生き抜こうと思う。