法金剛院の春の庭園を巡る | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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散策で主に史跡、神社仏閣を巡ってます
各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

前回からの続き(4月13日のこと)です

そして法金剛院の続きです
建物から出て、庭園を散策してみますニコニコ
礼堂から見た庭園

前に訪れた時も庭園を散策してます(後編




やはり待賢門院桜だと思う桜は見事ひらめき

その先にはボケの花が咲いていました

アップで

そちら側から礼堂としだれ桜を

仏足石

動画も撮ってみました


これもボケかな!?🤔

アップで

今度は反対側から見た花筏( *´艸`)


これは酒天童子椿らしいです
札が付いてるのが多いので名前が分かるものが多かったです👍

こんな椿も

石仏が並んだ所も

加茂本阿弥


青女(せいじょ)の滝(特別名勝)
この滝は待賢門院が築かせた滝なんだそうです
最初、大治5(1130)年に林賢(りんけん)が滝を造り、更に静意(じょうい)により巨石を組み足したということです
どちらも仁和寺に伝わる作庭法を相伝する作庭家
(古都 庭の旅2 京都 洛西参照)
ちなみに、待賢門院璋子
1101〜1145年
平安後期
鳥羽天皇の皇后
崇徳、後白河天皇の生母
藤原公実(きんざね)の娘
白河法皇の寵姫祇園女御の養女となる
のち、法皇の下で養育される
永久5(1117)年、鳥羽天皇に入内
元永2(1119)年、顕仁(崇徳天皇)を生む
しかし、この皇子は法皇の子であり、それが保元の乱(1156)の一因となる
天治1(1124)年、待賢門院と称す
康治1(1142)年、法金剛院で出家
(朝日 日本歴史人物事典参照)
ちなみに、後白河法皇と言えば最近(と言っても少し前ですが🤣)ではこの方ですよね⁉
(*´艸`*)

(NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」Twitterより)

アセビがいっぱい咲いてました😄

違う角度からだと椿がひらめき

歌碑



池の反対側を歩いています
そこからの眺め

池には中島が2つありますが、渡ることが出来たので行ってみます

そこにも椿がひらめき

中島から見た礼堂

少しアップで

この時期はまだ椿が多く咲いていました😊


黒椿

アップで

漆黒というより、濃い赤


絵になるのでついつい撮ってしまいます😁

鈴の音

グルッと回って、参道に戻ってきました

駐車場へ向かいます

この日のこと続きます
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ