´24 京の桜めぐり その25 真如堂の桜 | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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散策で主に史跡、神社仏閣を巡ってます
各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

前回からの続き(4月7日のこと)です
法伝寺をすぐ上がると、真如堂になります
こちらも以前伺っています

山門くぐった右手に、もう山吹が咲いてました

左手には小ぶりながらしだれ桜が満開ひらめき


アップで




その先にも桜が咲いていました

椿もまだまだ咲いてましたニコニコ

その先にあるのは大三元堂

そこにも見事な桜が

三重塔へ行く途中にも椿

三重塔

本堂の手前に桜

本堂周辺では、これくらいしか見当たらなかったような?🤔
そして三重塔と撮れるので、人がここに固まってました😅

そこから撮った三重塔


本堂

この頃、涅槃図を公開されていました
先を急ぐので拝観してませんが

桜がある周辺に宝篋印塔と椿

その辺りから大三元堂

本堂横は割りと桜が咲いてましたひらめき


この辺りにも椿



そこに解説のある桜の木がありました

解説板
たてかわ桜
 「たてかわ桜」と呼ばれるこの桜は、徳川家光公の乳母春日局(1579-1643) が、父 斎藤内蔵介利三 (1534-1582)の菩提を弔うために植えたものです。
  染井吉野の樹皮が横向けに走るのに対し、この桜は松の皮に似て縦に樹皮が走ることから、その名があります。桜の巨樹に多い江戸彼岸系の品種です。

  斎藤利三は明智光秀の重臣でしたが、本能寺の変の後、秀吉軍に山崎の戦いで負け、敗走した近江堅田で捕らえられて、六条河原で斬首されます(首もしくは胴体は光秀とともに本能寺に晒されたと言われています)。その首を、親交の 深かった東陽坊長盛と海北友松が奪って持ち帰り、真如堂に葬りました。
  東陽坊長盛は利休とも交友のあった当寺塔頭東陽院の開祖で、建仁寺の茶席「東陽坊」もこの僧の名に由来します。海北友松は倭風に朝鮮の遺風を加え、 山水・花鳥・人物等に独特の境地を開いた画家。東陽坊・友松・利三は、共に真 如堂に眠っています。
  桜は野生種間での交雑が盛んな上に、江戸時代には参勤交代などによってそれがますます進み、離合集散を繰り返した結果、多くの栽培品種(一説には500 種)が誕生したといいます。春日局が当時主流だった山桜や他の品種ではなく、 江戸彼岸系という桜を選ばれたのは、この種が長寿だったからかも知れません。
  お手植えから300年以上を経たたてかわ桜は、直径が1メートル余にもなっていたといいますが、伊勢湾台風(1959)で折れてしまいました。幹の中には子供が入れるほどの大きな空洞が空いていて、今もその名残が幹の内側に見られま す。
  数年後、奇跡的にも折れた幹から芽を吹き、取り木などを試みましたが失敗。 しかしすくすくと育つ芽があり、やがて大きくなって、今では毎春少し小振りで清楚 な花を咲かせるようになりました。
  水上勉氏は小説『桜守』の中でこの桜のことを、「枯れかけた老木の皮が若木を活着させて、見ごとに枝を張った。葉も大きかった。宇多野(作品中の人物)は親桜と同種の桜を接いだのである。弥吉は、めずらしい巨桜の底力をみて感動すると共に、周りに一本の石をたてて、「たてかわ佐久良」と宇多野が命名しているのに涙をおぼえた」と著しています。「宇多野」は京の桜守として著名な某氏のことのようで、実際にこの桜の再生を試みられましたが、成功しなかったそうです。
(原文のまま)

石碑も建ってました

上側の様子
残念ながらまだだったようでほとんど咲いてませんでした💦

その近くには後継ぎの桜もありました


本堂横を振り返って

こちらからいつものルートで金戒光明寺へ戻って行きました

お詫びと訂正
前記事の西来院の公開期間ですが、ブロ友さんからご指摘頂いてHPを見てみると
今年いっぱい(12月31日まで)の公開に延長されてるようです🙇
期間が長くなった分、行きやすくなるのではないでしょうか!?😊

この日のこと続きます
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ