御苑周辺を歩く(土御門内裏跡)(日本聖公会初代監督旧邸) | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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散策で主に史跡、神社仏閣を巡ってます
各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

前回からの続き(2月24日のこと)です
梅宮大社を後にして、次に向かったのは京都御苑でしたひらめき

昼過ぎてたので、まずはご飯を食べるため、一旦御苑を中立売御門から出ます
そして烏丸通りを下り(南下し)ます
道路を渡って、しばらく歩いて右手にあるのは
京都ガーデンパレス

そこに石碑と解説板があります
これではちょっと分かりにくいですが😅

土御門内裏跡(つちみかどだいりあと)
住所・京都市上京区烏丸通下長者町上る西側(京都ガーデンパレス前)

解説
土御門烏丸邸の沿革
  平安京左京一条三坊九町にあたるこの地(北に上長者町通、南は下長者町通、東は烏丸通西は室町通)は十世紀頃に村上天皇の皇子具平(ともひら)親王の邸宅が造営され、十二世紀に至って、曾孫源師時(もろとき)の邸宅・土御門第となった。白河院近臣の権勢者・藤原顕隆(あきたか)はこの地を買得して内裏を模した最初の里内裏(さとだいり)を営み鳥羽天皇から 崇徳(すとく)、近衛(このえ)と様く三代、二十四年もの間、天皇の御所となった。 この里内裏も、保元元年(1156)の乱によって廃絶した。   鎌倉・室町時代には清浄華院(しょうじょうけいいん)が移ってきたが、のち豊臣秀吉により寺町に移され、そのあとには黄金塗瓦茸きの大名屋敷が建ち並んだものの、これも秀吉の伏見城造営に際して伏見に移された。 
  江戸時代の寛永12年(1636)になって水戸藩邸が営まれたが、幕末の文久4年(1864)、烏丸通を挟んで東向かいにある蛤御門(禁門)で起こった戦火により全焼した。現存する水戸彰考館所蔵史料の多くはこの藩邸で蒐集されたものである。
  明治時代に入った後は転々と所有者の変わり、平成8年その一部が京都ガーデンパレスとなった。
  平成8年仲秋
   財団法人 古代学協会・古代学研究所
(原文のまま)
ちなみに、1つ横の通りの室町通りにも「土御門内裏」の石碑があり、過去に記事にしてます→土御門内裏 


そこから下ったすぐ横には
護王神社
こちらは以前記事にしています
→護王神社・前編 

後編 


その角にこんな石

こんなのもあります

解説
平安京をつくった人 
和気清麻呂公命を祀る護王神社
和気清麻呂公は延曆12年正月狩猟にことよせて桓武天皇を東山にお誘いし、京都盆地を見下ろしながら長岡から京都への遷都を進言しました。それが認められて長岡京の建設が中止されるとともに平安遷都が決定しました。清麻呂公は後に造宮大夫として精魂を傾けて都づくりに尽くし、翌延暦13年10月22日に遷都となりました。
(原文のまま)
これを読むと、桓武天皇により平安京が造営されたのではありますが、それに大きく関与してのが和気清麻呂であったことが分かる話ですひらめき
護王神社はその和気清麻呂を祀った神社です

そこから更に下った右手に石碑がありました

日本聖公会初代監督
シ・エム・ウィリアムス師旧邸
住所・京都市上京区烏丸通出水下る西側
こちらの石碑は今回初めて気づきましたあんぐり
C・M・ウイリアムス(1829〜1908)は、米国から来日した宣教師
長崎・大阪・東京・京都で布教を行う
日本聖公会初代監督に就任
その邸宅は、河原町五条にあったが、昭和11(1936)年、現在地へ移築される
その後、ウイリアムス氏記念館として使われていたが、現在は京都教区主教邸として使用されている
(いしぶみデータベース参照)
というものだそうです指差し

またまた下ったとこには、一昨年モダン建築祭で見た聖アグネス教会
その時の記事はこちら→聖アグネス教会 


と烏丸通り沿いを下って行きました
この日のこと続きます
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ