京都モダン建築祭7-2 旧武徳殿 | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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散策で主に史跡、神社仏閣を巡ってます
各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

前回からの続き(令和5年11月3日のこと・イベントは終了しています)です
では、中へ入ります

入って目に惹くのが、正面にある貴賓客席の玉座あんぐり
これが北側の唐破風部分に繋がってるということです指差し

天井ももちろん木造

隅の部分

そこから全体を見渡す
左側の光が射しているとこが入ってきたとこ


玉座部分



その彫刻など



客席はこんな感じで畳席でした😄

囲い?手すり?もありました
ここを常に使われてる方は普通なんでしょうが、こういう建物が現役で当初の目的通り使われてるということも驚きではありましたひらめき

続いて周辺のことも書いておきます


襲古還新(しゅうこかんしん)
 いにしえを、おそいで、あたらしきにかえる。 
即ち、昔の事を捨て去らずに、大切に考えてから新しいことを始めるの意。
大日本武徳会総裁・東伏見慈洽書 
第五十回全国武徳祭・第四回世界武徳祭記念石碑
平成21年1月29日
(原文のまま)

武徳薫千載
側面を見ると、野中広務さんの揮毫のようでしたあんぐり

高専柔道之碑

裏側には解説?が
少し長いですが、柔道の歴史で面白いことが書いてあったので文字起こししておきます
気になった方は読んでみてください😊
高專柔道之碑
  全国高等学校専門学校柔道優勝大会(略して高専柔道大会)は、京都帝国大学柔道部の主催で大正3年(1914年)に、ここ武徳殿において始まった。
  第一回大会は、第四高等学校、第六高等学校、第七高等学校の三校のみの参加であったが、年々参加校が増えていき昭和十年代には四十数校に達した。 第十二回大会から京都帝国大学と東京帝国大学による帝大柔道会の主催となり、翌第十三回大会からは、東北帝国大学と九州帝国大学が帝大柔道会に加わり、東部、中部、西部の三地区代表校が武徳殿で優勝旗を争うことになった。高専柔道大会はますます隆盛を極め、柔道団体戦の華となった。しかし、 昭和16年に戦時体制が強化されて、大正・昭和前期と一世を風靡した本大会は、文部省の指令で中止となり、二十七年間の幕を閉じた。
  各大会の優勝校は、第四高等学校(1〜7回の七連覇)、第五高等学校(八回)、第六高等学校(9〜16回の八連覇と20回)、松山高等学校(17〜19回の三連覇)、北海道帝国大学予科(21回)、関西学院高等商業学校(22回と25、26回の二連覇)、拓殖大学予科(23回)、同志社高等商業学校(24回)、松山高等商業学校(27回)であった。
  高専柔道大会では、すべての試合が、十五人の勝ち抜き勝負による団体戦で、勝負判定は一本勝ちだけとした。また、試合者の自由な勝負を尊重して、寝技への引込みを認めたので、本大会を通して寝技が高度に進歩し、全国に普及した。全国の高等学校・高等専門学校の柔道部員は、武徳殿出場を夢見て寝技の稽古に打ち込み、毎年新たに開発してきた寝技の秘術を尽くして、白熱した試合を展開した。
   武徳殿は、柔道の寝技発展を記念する殿堂であり、青春のすべてを高専柔道大会に賭けて奮励努力した若者たちの闘魂が宿る殿堂でもある。 
  高専柔道は、心技体を鍛えた幾多の有為な人材を育成し、柔道と日本社会の発展に大さく貢献した。なお、第二次世界大戦後、高専柔道大会の伝統と精神は、旧帝国大学を引き継いだ国立七大学による七大学柔道優勝大会に受け継がれている。 
  ここに、第三高等学校・京都帝国大学柔道部卒業生の故長谷川繁夫氏(平成17年4月26日逝去)の遺志を受けて、高専柔道之碑を武徳殿に建立する。
  平成21年(2009年)3月15日
     京都大学柔道部 長谷川繁夫記念寝技振興会
      書   吉川壽一
      制作 和泉正敏
(原文のまま)

そして入ったとこの反対側の先に先にアップした京都守護職上屋敷移築門があったわけです😄
次回は周辺のことになります
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ