前回からの続き(10月21日のこと)です
六波羅蜜寺を後にして、建仁寺まで戻り、そこから気になっていた場所へ向かいました
場所的には祇園甲部歌舞練場の東側(裏側?)になります
崇徳天皇御廟

住所・京都市東山区祇園町南側
HP・白峯神宮
駐車場・なし
戸は閉ざされているので、そこからお参りすることしか出来ません

駒札

御由緒
崇徳上皇(75代)は、平安時代の末、保元の乱 (西暦1156)により讃岐の国へ御配流の悲運に遭われた。上皇は、血書をもって京都への御還幸を願われたが、意の如くならず憤怒の御姿のまま、長寛2(1164)年夏、46歳にて崩御。五色台白峰山の御陵に奉葬された。
上皇の寵愛篤かった阿波内待は、御遺髪を請い受けて、この場所に一塚を築き亡き上皇の霊をお慰めしたと伝承されている。
その頃の京都では、上皇の怨念による祟りの異変が相次いで発生したため、御影堂や粟田宮を建てて慰霊に努めたが、永い年月の間に廃絶して、此の所のみが哀史を偲ぶよすがとなっている。
なお、孝明・明治両天皇の聖慮により、白峯神宮が創建され、元官幣大社として尊崇され今日に至っている。
当御廟所 月次祭 毎月21日 齋行
白峯神宮
(上京区今出川通堀川東入る)
(原文のまま)
崇徳天皇
第75代天皇
生没年 1119〜1164年
在位年 1123〜1141年
享年 46歳
鳥羽天皇の子でありながら、実の父は白河上皇であったとされ、鳥羽天皇からは「叔父子」と呼ばれ疎まれたという凄い話があります😅
鳥羽の意向により、23歳で異母弟の近衛天皇に譲位し、上皇に
その近衛天皇は17歳で崩御されたため、崇徳上皇の皇子・重仁親王の即位に期待するも、後白河天皇が即位
院政への道を絶たれた崇徳は、関白・藤原忠道と対立して失脚した藤原頼長と結んで蜂起
保元の乱が起きる
敗れた崇徳は、讃岐に流され、8年後に配所で崩御される
崇徳天皇と言えば、御霊として祀られてる人物ですが、祟り神として恐れられたのはこういう訳だけでなく
配所先で、3年かけて経をしたため、せめて経だけでも都に置いて欲しいと送るも、後白河天皇はこれを許さず破って返送したそうです😓
怒った崇徳はそのまま自決され、天狗となったと💦
以降幕末まで武家政権が続いたのは崇徳の祟りだとされたため、白峯神宮が創建されたということです
ちなみに、日本三大怨霊は
崇徳天皇
菅原道真
平将門
となります
(天皇125代の歴史参照)
その白峯神宮には以前訪れています→白峯神宮

この日のことはこれでお仕舞いです😌
次回からは11月に行った京都市内のことをアップしていきたいと思います😊
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ