久しぶりの清水寺へ-追記あり-(音羽の滝)(阿弖流為・母禮之碑) | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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散策で主に史跡、神社仏閣を巡ってます
各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

前回からの続き(1月9日のこと)です
先へ行くと、そこには音羽の滝
創建、寺名に由来する滝
下の池のところにある丸と四角の石が滝行の場所なんだそうです
古来「黄金水」「延命水」と呼ばれる
(以降京都・世界遺産手帳参照)
(トップのカバー画像は2月に訪れたときのものです)

その裏には
不動明王や行叡居士が祀られています

2月撮影の分
階段から降りた景色となります


追記
音羽の滝の解説
 音羽の滝
三筋の霊水は大昔より音羽山中より涌き出る清泉であり、創建以来一度も枯れる事なく、今日に至ります。観音様の功徳水である金色水とも呼ばれ、延命長寿、諸願成就のご利益があるといわれてきました。(霊水 冥加料500円)
またここは開山延鎮上人と開基行叡居士が出会った当山の起源の場であり、現在では不動明王をご本尊としてお祀りいたしております。
毎月28日の不動縁日には朝7時より山内僧侶が揃い、信者と勤行を致します。是非とも早朝の荘厳な雰囲気の中、共にご参拝頂ければ幸いです。
    合掌
(原文のまま)

前にはお不動さんの御朱印頂ける朱印所があります
こちらで以前頂いた御朱印です


舞台の下を通って行きます




その先に石碑などがあります

音羽地蔵尊

そこにあるのは
阿弖流為・母禮之碑

顕彰碑
 顕彰碑
八世紀末頃、日高見国胆沢(岩手県水沢市地方)を本拠とした蝦夷(えみし)の首領・阿弖流為(アテルイ)は中央政府の数次に亘る侵略に対し十数年に及ぶ奮闘も空しく、遂に坂上田村麻呂の軍門に降り同胞の母礼(モレ)と共に京都に連行された。
田村麻呂は敵将ながらアテルイ、モレの武勇、人物を惜しみ政府に助命嘆願したが容れられず、アテルイ、モレ両雄は802年河内国で処刑された。
この史実に鑑み、田村麻呂開基の清水寺境内にアテルイ、モレの顕彰碑を建立す。
(原文のまま)
1994年建立

その先にあるのは舌切茶屋
幕末当時の成就院執事・近藤正慎(しょうしん)の末裔が営業
正慎は月照の行方を追う幕吏(ばくり)に捕らえられ、所在を追及される
責め苦に耐え兼ね、口を開くことを恐れ、自ら舌を噛み切ったそうです
その子孫に清水寺が永代に渡り境内での営業を許可したというのがこちらの茶屋ということですびっくり
しかし、付いてる屋号が舌切りって、まんまやん笑い泣き
これ読んで、その屋号で良かったん!?って思ってしまいましたよ😅

椿?なんかも道沿いに咲いてました

石仏

舌切茶屋の先にも茶屋があります
忠僕茶屋
こちらは月照上人について薩摩に同行し、入牢しながらも上人の遺命を清水寺へ持ち帰った従者・大槻重助(じゅうすけ)の忠義を賞して、やはり清水寺が子孫に営業を許可したものだということです

その先にあるのが十一重石塔
これは寛永10(1633)年の本堂を始めとする諸堂再建を記念して寛永12(1635)年に建てられたもの
始めは本堂の東にあったが、大正7(1918)年に現在地へ移されたということです


その周りにはいろんな石碑があります
南無観世音菩薩と書かれたこちらは
曹洞宗太祖螢山禅師と清水の観音様との深いえにしを報恩顕彰する碑
 曹洞宗太祖常済大師螢山(けいざん)禅師(正中2年・西暦1325年示寂)は、鎌倉時代の末、越前(福井県)に降誕された祖師である。大師の自ら記するところによれば、大師は、幼少のころ、御祖母の明智(みょうち)さまに育てられた。明智さまは、曹洞宗高祖承陽(しょうよう)大師道元禅師に聞法し参禅された。
 明智さまは、そのむかし、7、8年間にわたって、肉親の前から姿を消したことがあったが、のちに大師の母君となる懐観(えかん)さまは、その消息をさがし求めて、清水の観音さまに日参し、明日は満願という6日めに、路上に小さな十一面観音さまの頭部を見つけ、これを拾いあげて、もし母の様子がわかれば、この観音像を修補したいと祈ったところ、願いは叶えられて、母君の明智さまと再開することが出来た。
 母君が数えて37歳のとき、多禰(たね)の観音さまに詣でて、毎日3333回の礼拝をつとめて祈誓し、大師は7ヶ月で誕生された。爾来、御祖母、御生母の深い観音信仰に育くまれて成長した大師は、能登(石川県)に洞谷山永光寺(ようこうじ)を開きかの十一面観音さまを奉安する円通院を建て、また諸嶽山總持寺を開くにあたり、門に入って諸堂棟を廻顧すれば、清水寺のごとく、壮観であり、ここは仏法の縁が熟した霊場であるとの瑞夢を感じた。果して、仏祖正伝の法は、大師とその門流に至って飛躍的、爆発的に伸展したのである。
 ここに、越前に生を受けた篤信の人
神奈川県横浜市 成壽山善光寺(第二世黒田武志老師) 寺族 
黒田倫子夫人は、発願して、資を投じ、大本山清水寺の御理解と大本山總持寺の御比護のもと、常済大師、御生母懐観大姉、御祖母明智優婆夷(うばい)三代と清水の観音さまとの深い仏縁を顕彰し永くその恩徳を讃える碑を建立するものである。
  平成13年11月吉祥日 駒沢女子大学学長・文学博士 東 隆眞 撰
(原文のまま)
曹洞宗の螢山禅師と清水寺との関わりが綴られた石碑

筆塚
江戸時代の書家・大久保芳広(ほうこう)が建てたもの

その近くには

京都府知事を勤めた蜷川虎三の句碑
道はただ 一つその道を ゆく春

蜷川虎三先生の略歴
1897年東京深川に生る
国立水産講習所を経て1920年私淑河上肇在任の京都帝国大学経済学部に入学
大学院に進み統計学に新分野を拓き学位を取得
教授に昇進 学部長となる
戦後 中小企業庁初代長官
50年京都府知事累選七期20有8年一貫して憲法を行政の本となす
憲法を暮しに生かす地方行政これより各地に興る令名愈々高く
81年2月洛北の寓居に永眠 行年84
痛惜の声国に満つ
大西良慶清水寺貫主と意気投合  慨然として天下を論ず  よってこの地に句碑を作りもって不滅の偉業を讃う
1982年2月 蜷川さんを偲ぶ府民のつどい
(原文のまま)

十一重石塔の近くには、放生池があります
そこから見た三重塔



よく見ると石仏もあります


その反対側には清水寺塔頭の延命院の庭

こちらもいい感じの庭園です♪照れ

清水寺のことはあと1回続きます🙇
僕も書いてて、こんな目一杯になるとは思いませんでしたよ🤣
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ