芸道成就・女人往生で有名なお寺(誓願寺) | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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散策で主に史跡、神社仏閣を巡ってます
各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

前回からの続きです
(令和元年9月28日のことになります)

誠心院から新京極を上がって行くと、次にあるのが誓願寺
住所・中京区新京極桜之町453
ご利益・芸道上達・恋愛成就・心願成就
なので、画像はほぼ被ります

寺号標と駒札
 天智天皇6(667)年、天皇の勅願により創建された。本尊の阿弥陀如来像は賢問子・芥子国の作であった。もとは奈良にあったが、鎌倉初期に京都の一条小川(現・上京区元誓願寺通小川西入)に移転し、その後、天正19(1591)年に豊臣秀吉の寺町整備に際して現在地に移された。
 その当時は京都有数の巨刹の規模を有し、表門は寺町六角に面し、裏門は三条通に北面し、境内地六千五百坪には多数の伽藍を有し、十八ヶ寺の山内寺院を擁していた。
 清少納言和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺としても名高い。また源信僧都(げんしんそうず)は、当寺にて善財講を修し、一遍上人も念仏賦算を行った。浄土宗元祖の法然上人が興福寺の蔵俊(ぞうしゅん)僧都より当寺を譲られて以降、浄土宗になったという。現在は法然上人の高弟・西山(せいざん)上人善恵房證空(ぜんねぼうしょうくう)の流れを汲む浄土宗西山深草派の総本山である。
(原文のまま)
世阿弥の作と伝わる謡曲「誓願寺」に謡われ、第55代住職の策伝上人が落語の祖と呼ばれるなど芸に関する由緒が多い
(京都大知典参照)

山門をくぐると、左手に手水舎
見切れてるけど、裏側には鐘楼

すぐ真正面が本堂
御朱印は階段上がった、本堂の左手

山門くぐった右手には北向地蔵尊堂と右手に隠れるようにある

扇塚
ここにも扇塚の駒札があったのですが、撮り忘れていますf(^ー^;
前の記事では撮っていたので、そこから書き出しておきます
 世阿弥の作と伝えられる謡曲「誓願寺」は、和泉式部一遍上人が主な役となって誓願寺の縁起と霊験を物語ります。この謡曲の中で、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることが、能楽をはじめ舞踏など芸能の世界で尊崇され、江戸時代から誓願寺へ参詣するその筋の人が数多くありました。特に舞踏家が多く、文化・文政・天保(1804~18044)のころに京都で活躍した篠塚流の祖・篠塚文三郎(梅扇)は、幸若の系を引く能楽的な色彩と歌舞的な色彩を調和させた優れた芸風を示したといわれ、天保年間には山村舞とともに京阪で大いに流行しましたが、彼ら舞踏家の中に誓願寺の和泉式部信仰がありました。その信仰を、昭和・平成の時代まで伝承した舞踏家がありました。
 誓願寺の「扇塚」に、芸道上達を祈願して「扇子」を奉納することには、右のような深い歴史的な意味が秘められているのであります。また、誓願寺第五十五世策伝日快上人(1554~1642)が「醒睡笑」八巻を著作して落語の祖と仰がれておられることも、「扇子」との強い絆を保持するゆえんであります。
(原文のまま)

こちらで頂いた御朱印です
圓光大師(法然上人)二十五霊場・20番札所

洛陽三十三観音霊場・2番札所

圓光大師霊場・御詠歌
こちらは他にも
洛陽六阿弥陀霊場
新西国三十三観音霊場
西山上人十六霊場
慈摂大師二十五霊場
があります

新京極を上がっていきます
これは振り返って誓願寺方向
誓願寺は見えてないですけどね

三条通りとの突き当たり
そこはちょっと坂になってます

三条から河原町方向を見たとこ

京都新京極御朱印めぐりの場所は誓願寺が一番端(北側は)だったのでお仕舞い(行ってないとこは後から行ってるのてまた巡ります)ですが、次もお寺が続きます
なんせ寺町だから(笑)
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ